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'08/01/03 本紙掲載 
     
 

関白・大久保没後130年

■ 京都・石薬師の邸宅 激動維新描いた舞台裏

 幕末維新期に絶えず変革の中心にいて「大政事家」とも呼ばれた大久保利通は1878年5月14日朝、霞が関の自宅から赤坂の仮御所へ馬車で向かう途中、新政府に不満を持つ士族らによって暗殺された。「冷徹非情」「寡黙にして峻厳(しゅんげん)」などと表現される一方、「公平無私」「清廉」と評された大久保が47歳で凶刃に倒れ、今年で130年を迎える。本紙に「さつま人国誌」を掲載している歴史作家・桐野作人氏に、京都の大久保邸にまつわる逸話を披露してもらった。

 京都の寺町今出川を下った石薬師通りの一角に「大久保利通旧邸」と刻まれた石柱が立っている。いうまでもなく、大久保利通の幕末維新時代の寓居(ぐうきょ)があった場所である。禁裏御所(現・京都御苑)の東北方にあたり、二本松の薩摩藩邸(現・同志社大学今出川校舎)にもほど近い。
 大久保がこの屋敷に住んだのは慶応2(1866)年の春から明治元(68)年6月までの2年有余だという。

明治元(1868)年ごろに撮影された大久保利通=大久保利〓(券の刀がシタミズ)氏提供
●西郷と茶室で密談
 屋敷の奥に有待庵(ゆうたいあん)と呼ばれる茶室があった。これは薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき)の屋敷=近衛殿(このえどの)御花畑(おはなばたけ)=から譲り受けたものである。建坪が30坪ほどと手狭なうえ、幕府方からの監視の目も光っていたことから、大久保は機密の保持ができる密談用の一室がほしかったのである。大久保利武(利通三男)によれば、小松邸にあったころの有待庵は薩長同盟締結の会談にも用いられた。昭和30年代まで現存していたという。
 また大久保は南隣の一軒家も借りて、ひそかに長州藩士たちの宿所にした。禁門の変以来、長州藩士は入京を禁じられていたからである。品川弥二郎、広沢真臣(さねおみ)、福田侠平(きょうへい)などがここに潜伏していた。
 大山巌(いわお)=のち元帥、陸軍大臣=の証言によれば、大久保や西郷隆盛が幕府方の新選組などに付け狙われていたので、大山が西郷を、西郷従道(じゅうどう)が大久保をそれぞれ護衛し、懐にはピストルを忍ばせていたという。
 大山は、西郷が大久保邸を訪ねたときのことも証言している。
 「石薬師の宅の東隣には甲東(大久保の号)の家来どもの控へてゐる小さな家があったが、西郷が甲東を訪ねて、奥へ這入(はい)ると、自分達は付いて行くことは出来ず、その隣家の控へ所に長く待たされ、又帰路を警護したものであった」(「甲東逸話」)
 若い護衛の大山は大久保と西郷の密談には同席できなかった。機密を要する政治向きの話だったろうから当然である。2人が密談したという「奥」が有待庵だったに違いない。
さつま人国誌  ●●● 
 討幕の密勅が薩摩藩に渡されたときのいきさつが面白い。大久保は密勅が下ることを日記に「一品の秘物」と書き、「感涙ほかなし」と感激している(慶応三年十月十三日条)。大久保は日記のなかでめったに感情を表さないから、よほどの喜びだったものと思われる。
 そして、討幕の密勅を実際に受け渡しするのは翌14日のことで、大久保は密勅作成に関与した1人である公家の正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる)(のち嵯峨実愛)の邸宅を訪れた。「侯爵嵯峨実愛談話筆記」には、そのときの様子が次のように書かれている。
 「余が大久保に(密勅を)渡せし時は、幕府の近藤勇が七、八人召し連れ、余が門前に待ち居たり、よりて大久保に其の事を咄(はな)し、如何(いかが)すべきと言(いい)ければ、大久保曰(いわ)く、何も恐ろしきことはなしと云(いい)て出(い)でしが、実に心配せり」
 新選組局長の近藤勇みずから数人の隊士を引き連れて、正親町三条邸を見張っていたのである。おそらく大久保を尾行してきたのだろう。だが、泣く子も黙る新選組に対しても、大久保は少しも動じていないのである。
大久保邸奥の茶室「有待庵」=大久保利〓(券の刀がシタミズ)氏提供
●岩倉との文書往来
 大久保といえば、その盟友の岩倉具視との交流も欠かすわけにはいかない。大政奉還から王政復古に至る激動のなかで、二人の交流も緊迫したものだった。
 大久保と岩倉の付き合いは、島津久光の率兵上京のあった文久2(62)年4月からである。とくに王政復古への動きが表面化した慶応3(67)年になると、2人は肝胆相照らす間柄になった。
 当時、岩倉は和宮降嫁の一件での謹慎処分が解かれないまま、洛北の岩倉村に蟄居(ちっきょ)していた。大久保はたびたび岩倉村を訪れて、岩倉と密会している。面白いのは、2人の連絡方法である。岩倉は二男具定(ともさだ)を幼児のころ、近所の農家に里子に預けていた。じつは、その農家の娘が大久保への連絡にあたったのである。後年、彼女を大久保利武が取材している(「有待庵を繞(めぐ)る維新史談」)。
 「私が十八歳頃のことでありました。岩倉公のお使いで度々石薬師の大久保様のお宅往復いたしました。その時は何時も身支度を大原女(おおはらめ)の風体に衣替えまして、薪を頭の上に載せ、薪の間にお手紙を入れ込みてまいりました。大久保様のお宅は、裏をまわりお茶室の方へすぐまいりました。大久保様へお手渡しいたし、また御返詞(へんじ)を薪の間に入れ込み帰りましたが、大変な御用心で、何時も必ず大久保様御自身が出ていらっしゃいました。その時分のことで随分怖いお使いを勤めたことを覚えて居ります。その都度御褒美を戴き可愛がられて居りました」
 大原女は洛北の大原や八瀬から洛中に炭などの物売りに来る若い女性たちのことである。洛中でよく見かける風俗を利用した巧みな連絡法には感心させられるとともに、当時の緊迫した政情を物語る。
 ●●● 
  大久保邸は坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋事件にもかかわっている。
  近江屋事件から4日後の慶応3年10月19日早朝、大久保邸に高台寺党(新選組の分派)の三樹(みき)三郎(さぶろう)ら3人が駆け込んできた。彼らは新選組に首領の伊東甲子太郎(かしたろう)を殺されて逃走し、薩摩藩に庇護(ひご)を求めてきたのである。
  大久保は彼らを庇護することに決め、中村半次郎(のち桐野利秋)に命じて伏見の藩邸に匿(かくま)った。彼らの証言から、龍馬たちを暗殺した下手(げしゅ)人が新選組だということになる(のち見廻組と判明)。このように、大久保が陣頭指揮し、土佐藩と密接に連携して事件解決にあたったことはあまり知られていない。
 近江屋事件はまた、中岡と親しくしていた岩倉を落胆させていた。大久保は何通もの書簡を送って岩倉を慰めている。とくに高台寺党が駆け込んできた当日の書簡では次のように書いている。
 「坂本はじめ暴殺の事、いよいよ新撰(新選組)に相違なしと聞かれ申し候。近日来、ますます暴を働き候由、第一近藤勇が所為と察せられ申し候。実(まこと)に自滅を招くの表れかと存ぜられ申し候」
 大久保は龍馬たちを暗殺したのが新選組だと断じて怒りをあらわにし、近藤勇は自滅するだろうとまで言い切っている。
 以上見たように、石薬師の大久保邸は幕末維新の激動のなかで、いくつかの重大事件の舞台裏になったのである。有待庵にはのちに、討幕の嵐を予感させるかのように、大久保の和歌が掛け軸になって懸けられた。
 「ときにより血汐の浪もたたせずば 濁り果たる御代(みよ)は澄(すむ)まじ」
(歴史作家・桐野作人) 

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