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'07/04/14 本紙掲載 
     
 

関ヶ原のスナイパーの末路

■ 殊勲あげるも出家放浪

南林寺由緒墓地にある柏木源藤の供養塔(鹿児島市南林寺町)

 南林寺由緒墓地(鹿児島市南林寺町)の一角に、「武山(ぶざん)丈心(じょうしん)居士(こじ)」と刻まれた墓がひっそりと立っている。江戸時代中期の明和6(1769)年に建立されたものらしい。
 法名しか刻まれていないが、これは慶長5(1600)年の関ケ原合戦で、島津義弘の窮地を救った柏木源藤の供養塔である(「称名墓志」巻二)。源藤は義弘の家来、川上四郎兵衛忠兄の郎党だった。
 義弘率いる島津勢は関ケ原合戦で西軍に属したが、武運つたなく敗北のやむなきにいたり、義弘は敵中突破による郷里帰還を決断した。いわゆる「島津の退(の)き口」である。
 徳川家康は本陣のそばを猛然とすり抜けた島津勢を見て、腹心の井伊直政や本多忠勝に追撃の下知を発した。
さつま人国誌  徳川の精鋭の追撃はすさまじく、さしもの島津勢もその猛追を振り切れず、家老の長寿院盛淳(もりあつ)、おいの島津豊久(日向佐土原城主)も義弘の退却を援護しながら、次々と討ち死にした。
 主戦場から5キロほど南東に離れた牧田あたりで、井伊勢がついに義弘主従に追いついた。直政(40歳)は黒馬に乗り、白糸威(しらいとおどし)のよろいにイチョウの前立のついた甲冑(かっちゅう)を着け、長刀を携えながら、「何をもたもたしておる。兵庫(義弘)を討て」と大音声をあげた。
 とそのとき、島津勢の一団から源藤が進み出て鉄砲を放つと、弾は見事に直政に命中した。直政はしばらく馬上で激痛をこらえたものの、たまらず落馬した。それを見た源藤は「川上四郎兵衛、討ち取ったり」と、思わず主人の名を叫んだ。郎党の悲しさで自分の名を名乗るのははばかられたのだろう。
 直政の負傷部位と程度は諸説あるが、一番信用できそうな井伊家の記録「井伊慶長記」によれば、弾は直政の右脇腹に当たったものの、頑丈なよろい(南蛮具足か)だったために、弾が跳ね返って右腕(右ひじとも)を貫いたという。
 大将の負傷で井伊勢が追撃を断念したために、義弘主従は辛うじて窮地を脱した。源藤の大殊勲だった。ときに源藤、22歳という。なお、直政はこのときの負傷が癒えずに、1年半後に他界している。
 この手柄ゆえか、源藤は義弘の隠居所である加治木に住んだ。だが、その後の源藤は不遇だった。「本藩人物誌」には「逼迫(ひっぱく)して町人にまかりなり、子孫断絶いたし候」とある。
 なぜ源藤は落ちぶれたのか。それをうかがわせるような逸話がある。「旧南林寺由緒墓志」には、源藤が井伊直政の死去を知ってこれを哀れみ、「弔死の志をもって墨染の法衣を身にまとい、廻国(かいこく)修行に郷関を出(いで)しが、また帰らず、その終焉(しゅうえん)の地、果して何処(いずこ)なるか、勇士の末路、憐(あわ)れにもまた遺憾なり」とある。
 直政の死を知った源藤には、どんな思いが去来したのか。ほんの一瞬の出来事が徳川四天王と勇名をはせた武将の一命を奪ってしまったことに、世の無常を感じたのかもしれず、それが出家と放浪につながったのだろうか。

(歴史作家・桐野作人) 

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