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'07/04/21 本紙掲載 
     
 

薩長同盟締結の小松帯刀京屋敷

■ 近衛家の別邸内と推測

小松帯刀邸があったと思われる近衛家旧邸址の碑(現在の同志社大学新町校舎内)=京都市

 明治維新を実現した最大の原動力は薩長同盟の締結=1866(慶応2)年=にあるといっても過言ではない。
 近年、薩長同盟の性格や締結時期をめぐって研究が盛んになっている。しかし、肝心で基本的な事柄がおろそかになっているのではないか。それは薩長同盟がどこで結ばれたのかという点である。
 多少、幕末維新史に通じている人なら、「小松帯刀(たてわき)=薩摩藩家老=の京都屋敷だ」と即座に答えるだろう。では、その小松邸がどこにあったのか答えられる人は少ないのではないだろうか。
 じつは、そんな基本的な事実もはっきりしていないのである。寺町石薬師にあった大久保利通邸宅の茶室(有待庵(ゆうたいあん))が小松から譲られたものだとわかっていることから、大久保邸の前身が小松邸だったとする説がある。現在の京都市上京区石薬師通寺町東入ル(京都御苑(ぎょえん)の北東角)あたりである。でも、私は茶室が移築されただけだとみており、小松邸がここにあったとは限らないのだ。
さつま人国誌  結論からいえば、小松邸は二本松の薩摩藩邸から西方約300メートルにある摂関家の近衛家の邸宅「近衛殿」(旧桜御所)内にあったと考えられる。
 現在、烏丸今出川交差点近くにある同志社大学今出川校舎に、かつて薩摩藩邸があった。そしてそこから西に向かうと同大学の新町校舎という別のキャンパスがあるが、これが「近衛殿」跡である。
 その裏づけとなる史料もある。まず、大久保の三男利武氏の談話(「尚友ブックレット」九)。利武氏は「(小松帯刀は)相国寺の少し先、烏丸通に在ったと聞いて居ります近衛家御花畑の別邸を借り住居して居られます」と述べている。近衛家は島津家と親せき同士だったから、薩摩藩の大立者である小松に便宜を図ったのだろう。
 次に、鹿児島出身の伝記作家、勝田孫弥も、長州藩の木戸孝允が薩長同盟のために入京したくだりで、「一月京師(けいし)に入り、先づ西郷の寓所(ぐうしょ)に投宿せしが、数日にして、近衛家の花畑に在りし別荘に移転せり」と記している(「大久保利通伝」中巻)。この別荘が小松邸だろう。
 第三に、薩長同盟締結直前に上京した薩摩藩家老の桂久武も小松邸を何度か訪れ、「小松家宿、御花園へ参り候」と日記に記している(「桂久武日記」)。「御花園」はおそらく右の「御花畑」「花畑」と同じ場所で、「近衛殿」を指していると思われる。
 近衛家の邸宅は幕末期には2カ所あった。室町時代から桜御所と呼ばれた「近衛殿」と、豊臣政権時代につくられた今出川邸(現・京都御苑内今出川門近く)である。幕末には今出川邸が本邸となり、古い「近衛殿」は別邸化したのではないか。断言はできないが、「近衛殿」が「御花畑」「御花園」と呼ばれ、そのなかに小松邸があった可能性が高い。
 薩長同盟がどこで結ばれようと、その歴史的な意義は不変であり、場所の問題など些末(さまつ)なことかもしれない。でも、私たちが歴史的な事件を実感し、当時に思いをはせられるのは、やはりゆかりの地に立ち会うことではないだろうか。その意味で、薩長同盟締結の舞台を特定する作業は決して無駄ではないと思うのである。

(歴史作家・桐野作人) 

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