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■ 大久保利通邸の近くか
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| 大久保利通旧邸の石碑(右端)の先に見える四つ角が石薬師中筋 |
前回、薩長同盟が結ばれた小松帯刀(たてわき)の京都屋敷の所在地を推定してみた。
それでは、幕末薩摩の三傑のうち残りの2人、西郷隆盛と大久保利通の京都での邸宅はどこにあったのか当然気になる。
このうち、大久保邸の所在地はよく知られており、現在も「大久保利通旧邸」と刻まれた石碑が立っている(現・京都市上京区石薬師通寺町東入ル)。大久保がここに住んだのは、薩長同盟締結直後の慶応2(1866)年春ごろから明治2(1869)年春までのおよそ3年間である。勝田孫弥「甲東逸話」によれば、広さは30坪ほどと狭かった。大久保はまた邸宅の南隣に一軒家を借りて、洛中(らくちゅう)に出入り禁止となっていた長州藩士の広沢真臣(さねおみ)、品川弥二郎、福田侠平(きょうへい)などをひそかに住まわせていたという。
気になるのは西郷邸である。西郷は一体どこに住んでいたのだろうか。
桐野利秋(当時、中村半次郎)の日記「京在(きょうざい)日記」によれば、桐野は「西郷宿所」に何度も出入りしており、そこには品川や土佐藩の中岡慎太郎など他藩士も訪ねてきていることがわかるが、残念ながらどこにあったかは書いてない。
じつは、その手がかりがある。大久保の三男利武氏の手になる「利武聞書」に地元の古老から聞いた興味深い話がある。
「西郷南洲翁も一時石薬師中筋の中熊(薩邸出入りの料亭)の二階に居られたこともある」
何と、西郷も大久保邸のある石薬師付近に住んでいたというのである。
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この場所がどこなのか気になって、現地を調べたことがある。石薬師通りは京都御所(現・京都御苑(ぎょえん))の北東にある石薬師門からつづく東西の通りである。そして「中筋」は石薬師通りと交差する南北の通りだとわかった。
この辻が「石薬師中筋」であることは間違いない。この辻の四隅のどれかにあったと思われる「中熊」という料亭の2階に西郷が住んでいたのか。しかも、この辻は大久保邸の石碑から東にわずか20メートルほどしか離れていないのである。つまり、西郷邸と大久保邸はほとんど隣同士になる。
さあ、これで一件落着かと思ったが、よく考えるとおかしい。大久保は一軒家に住んでいるのに、西郷は料亭の2階に間借りしているではないか。この違いはなんだろう。
その疑問を裏づけるように、「甲東逸話」で、大山巌(のち元帥、西郷のいとこ)が「維新前西郷は、相国(しょうこく)寺の門前に一家を構へていた」と回想しているのに気づいた。
解決したと思ったら、新たな疑問が生じてしまった。西郷邸は果たしてどこにあったのか。次回もう一度考えたい。
(歴史作家・桐野作人)
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