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'07/05/12 本紙掲載 
     
 

桂久武上京の隠れた目的

■ 先祖・島津歳久の墓参

島津歳久の首級が埋葬されていた浄福寺の朱門=京都市上京区

 安政5(1858)年の「安政の大獄」で追いつめられた西郷隆盛と僧月照が小舟から鹿児島湾に身投げしたことはよく知られている。
 一説によれば、このとき、西郷は月照に海岸の灯火を指して、「あれは薩摩武士たちに崇敬される心岳寺でございます」と説明した。月照が心岳寺の方角に向かって手を合わせ瞑目(めいもく)した瞬間、西郷が月照を抱きかかえて入水したといわれている。
 戦国時代の武将、島津歳久(としひさ)(義久、義弘の実弟)は豊臣秀吉に反逆者と断罪され、文禄元(1592)年7月18日、鹿児島市吉野町の竜ケ水で自害して果てた。歳久の死を悼んだ兄義久は秀吉死後、その菩提(ぼだい)を弔うため、この地に心岳寺を建立した。寺号は歳久の法号にちなむ。現在は平松神社になっている。
さつま人国誌  以来、恨みをのみながら、潔く果てた歳久の生きざまは、薩摩武士たちにとって理想像とされ、心岳寺は聖地となった。曽我どんの傘焼き、日新寺参詣、妙円寺参り、赤穂義士伝輪読会と並んで、7月18日の心岳寺参詣は、鹿児島城下の郷中教育にはなくてはならぬ年中行事となった。西郷も、二才(にせ)のころ経験したであろう心岳寺参詣を念頭に置いて月照に話したに違いない。
 歳久の自害に話を戻そう。歳久の亡きがらのうち、胴体は姶良町帖佐にある総禅寺に葬られたものの、首級は秀吉のもとに送られた。秀吉はそれを京都・聚楽第(じゅらくてい)の東門にある一条戻り橋にさらしたという。天下の大罪人の末路はこうだといわんばかりに。
 たまたま在京していた島津家一門の図書頭(ずしょのかみ)忠長(ただたけ)は、いとこの歳久の変わり果てた姿をふびんに思い、これを家来に命じてひそかに盗ませ、今出川の浄福寺の塔頭(たっちゅう)宝林庵に葬った。
 時代が下った幕末。薩摩藩家老の桂久武は「天機伺い」のため上京した。兵庫沖に外国艦隊が押し寄せたことに心を悩ます孝明天皇へのお見舞いが目的だった。上京中、桂は薩長同盟締結の場にも立ち会ったことを「桂久武日記」に記している。
 じつは、桂にはもうひとつ、ひそかな目的があった。その日記によれば、慶応2(1866)年2月18日、桂は今出川の浄福寺に参詣している。
 「浄福寺心岳公(歳久)御廟(ごびょう)参詣いたし、御供の魂屋(たまや)少々相損じ居り候間、取り繕い方相願い置き候」
 参詣した日は歳久の月の命日だから、桂の格別の思い入れが感じられる。歳久の御霊屋(おたまや)が少し破損していたので、桂は寺側に修繕を依頼している。それから1週間後の25日、桂はふたたび浄福寺に参詣し、金子(きんす)五百疋(ひき)(銭五貫文相当)を寄進した。おそらく御霊屋の修繕代だろう。
 桂はじつは養子で、実家は日置島津家である(当主久風の五男)。同家の祖こそ歳久だった。桂は上京した機会に、非業の死を遂げた先祖のもうひとつの墓に詣でようと念願していたのだろう。
 島津修久著「島津歳久の自害」によれば、のち明治5(1872)年、日置島津家14代の島津久明氏と田尻種寛氏が浄福寺から歳久の遺骨などを鹿児島に持ち帰ったという。
 そして、総禅寺の亡きがらを掘り起こして、あらためて首級とともに平松神社に埋葬した。ここで、280年ぶりに歳久の首と胴体は一緒になったのである。

(歴史作家・桐野作人) 

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