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'07/05/19 本紙掲載 
     
 

「神変奇特」の軍配者・川田義朗(上)

■ 「日取り」占い 軍動かす

川田神社にある川田義朗の墓=鹿児島市川田町

 今年のNHK大河ドラマ「風林火山」では、山本勘助が武田信玄の軍師となって八面六臂(ろっぴ)の活躍をしている。
 戦国武将の陰には名軍師がいるとされてきた。たとえば、豊臣秀吉には竹中半兵衛や黒田官兵衛、上杉景勝には直江兼続(かねつぐ)、伊達政宗には片倉小十郎という具合に。
 彼らはたしかに軍略や領内統治について助言した腹心の家来ではあったものの、果たして軍師だったのかといえば、ノーといわざるをえない。
 意外なことだが、戦国時代には「軍師」という言葉はなかった。当時の史料にも、来日した宣教師たちが編纂(へんさん)した「日葡(にっぽ)辞書」という織豊時代の日本語辞典にも「軍師」という言葉は出てこない。
 当時は「軍師」とはいわず、「軍配」もしくは「軍配者」と呼んだ。右の「日葡辞書」には「軍配者」を「戦争の事について占い判断をし、進発すべき日や戦端を開くべき日などを告げる者」と解説してある。
 私たちは軍師といえば、諸葛孔明のような神算鬼謀の持ち主をイメージするが、それは小説や映像の中の世界である。
 そんな架空の華々しい軍師と違って、現実の軍配者はもっと地味な存在である。その仕事は主に2つあり、「気」を見ることと「日取り」の占い判断である。
さつま人国誌  前置きが長くなった。じつは、戦国島津家にも有名な軍配者がいた。川田義朗(よしあき)=1595年没=である。
 義朗は島津義久の側近で、駿河守(するがのかみ)という官途(かんと)を名乗っていた。島津日新斎(じっしんさい)(忠良)の重臣で軍配者だった伊集院忠朗(ただあき)の弟子として修行し、25歳のとき、潔斎(けっさい)精進して生涯女人を近づけないことを誓ったという。これが軍配者になる条件で、常人とは異なる能力を引き出すためだろう。
 合戦に勝つと「勝鬨(かちどき)」をあげることはよく知られている。島津氏の史料では、これを「勝吐気」と表記したものがあることをご存じだろうか。
 将兵たちは勝利した場所に立ち、刀ややりを天に高く突き上げて喚声をあげる。また地面を足で踏みならして同様に喚声をあげる。この勝吐気は、勝利をもたらしてくれた天地の「気」に感謝をささげる神聖な儀式である。「気」にかかわるだけに、軍配者の重要な仕事だった。義朗はこうした儀式も取り仕切った。
 天正13(1585)年、義弘は兄義久の陣代として肥後に攻め入り、阿蘇氏方の隈庄(くまのしょう)城を囲んだ。そこへ阿蘇方の援軍が押し寄せてきた。義弘は諸将を集めて談合し、一戦することに決したうえで、義朗にたずねた。
 ところが、義朗は義弘たちの期待に反して「明日から続けて悪日(あくにち)がやってきます。明日のお働きは無用かと存じます」と中止を託宣した。すると、義弘以下の諸将がこれに異論を唱えずに従ったというから不思議である。義朗の託宣がよく当たるという定評があったのか、あるいは太守義久の信任する軍配者だったからだろうか。
 「悪日」は陰陽道(おんようどう)の用語で、外出や出陣を忌み嫌う凶日のこと。現代の私たちも冠婚葬祭で大安や仏滅などの六曜を気にする。悪日も六曜と似ていて、それをもう少し複雑にした理論だった。義朗は軍配者のもうひとつの仕事「日取り」を占うことで、島津軍を動かしていたのである。

(歴史作家・桐野作人) 

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