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'07/06/01 本紙掲載 
     
 

島津家の家法・くじ取り(上)

■ 「神慮」に作戦委ねる

島津氏がくじ取りをした霧島六所権現のひとつ、霧島神宮

 最近、数億円が何本も当たるサッカーくじが話題になった。江戸時代の富くじから現代の宝くじまで、くじは庶民の射幸心をあおるものだと考えられがちである。
 くじの歴史は古く、日本書紀の昔からあり、本来、神意を知るための神聖な儀式だった。わが国では、天皇や将軍さえもくじで決めた例がある。鎌倉時代、四条天皇がなくなったとき、執権北条泰時は朝廷の依頼により鶴岡八幡宮でくじを引き、後嵯峨(ごさが)天皇を後継に定めた。室町時代には将軍足利義持が死去すると、管領や僧侶たちが石清水(いわしみず)八幡宮でくじを引き、次の将軍を義教に決めている。
 戦国時代、島津家においても、くじ取りが数多く行われたことをご存じだろうか。くじ取りは15代貴久、16代義久の2代、約30年間に集中している。ときあたかも、島津氏が薩摩統一から三州(薩摩、大隅、日向)統一を成し遂げ、さらに九州制覇に挑もうとする波乱に満ちた時代だった。
 では、貴久や義久はなぜくじ取りをしたのだろうか。くじ取りを史料で確認できるのが20例前後あるが、そのほとんどが合戦に関するものである。
 たとえば、貴久が弘治元(1555)年4月、大隅正八幡宮(現・鹿児島神宮)で引かせたくじは蒲生氏との戦いをどうするか占うもので、「この度の弓箭(きゅうせん)(合戦)につき、別してご神慮忝(かたじけ)なく存じたてまつる事」という神文をささげたうえで、くじの中身を「一ならば陣たるべき事、二ならば今の分たるべき事」と定めた。つまり、(1)出陣、(2)現状維持という2択である。
さつま人国誌 義久の例では、天正14(1586)年9月、大友宗麟(そうりん)領である豊後国に攻め入ろうとする時期、霧島六所権現(現・霧島神宮はそのひとつ)で引かせたくじは、1、2、白くじの3択から成り、それぞれ、(1)豊後へ出陣、(2)出陣延期、(3)諸方角思案という選択肢だった。義久は同年正月にも、豊後への攻め口について、(1)肥後口、日向口の両方、(2)日向口だけという方角選択のくじを引かせたこともある。
 くじ取りする場所は、貴久が大隅正八幡宮を、義久が霧島六所権現を好むという傾向があった。
 貴久も義久も、四方にいる多くの敵と対決しなければならなかった。その際、合戦すべきか否か、合戦するならいつがよいか、どの敵と合戦すべきかという軍略や作戦上の重大な岐路に何度も立たされた。2人とも当主としての決断が島津家の浮沈に直結するだけにさぞや思い悩んだことだろう。
 また重臣たちに諮っても甲論乙駁(こうろんおつばく)で、結論が出ないときも往々にしてあったに違いない。そんなとき、反対を押し切って強引に結論を出せば、しこりが残るし、もし悪い結果が出たときには、その責任をめぐって家中の分裂にもつながりかねない。
 そのため、島津家では重要問題をくじ取りによる「神慮」に委ねて、その結論に家中のすべてが従うという意思決定方式を編み出したのである。その根底には、人智には限界があるという一種の人間洞察があるようにも思える。
 くじにすべてを委ねるというのは、いかにも時代遅れで、島津氏の「呪術(じゅじゅつ)的非合理性」を示しているという研究者の批判もある。しかし、現代人の価値観で中世人のそれを裁断するのはどうか。また、くじ取りには、家中の意見対立を調整して結束を強化するとともに、島津家当主の権威を神聖化するという現実的な効能もあったように思われる。

(歴史作家・桐野作人) 

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