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'07/06/09 本紙掲載 
     
 

島津家の家法・くじ取り(下)

■ 秀吉を前に「神慮」迷走

「秀吉・義久の和睦」像。頭を丸めて豊臣秀吉に降伏する島津義久(右)=薩摩川内市泰平寺跡

 前回、くじ取りは人智を超越した「神慮」をうかがうものだと述べた。
 それと矛盾するようだが、「神慮」は人為によって制約されてもいた。「神慮」に対する2択や3択の問いかけを設定するのはあくまで人間だったからである。また、くじ取りは島津家当主の専権事項でもあった。
 島津家のくじ取りがもっとも多かったのは天正14(1586)年で、じつに6回もある。同年暮れから豊臣秀吉の20万の大軍が九州に上陸しはじめる。くじ取りは秀吉への対応をめぐってのものだった。
 豊後の大友宗麟(そうりん)は島津方に圧迫された末に秀吉に従っていた。そのため、豊後に攻め入ることは秀吉の勢力圏に踏み込むことになる。また秀吉は「惣無事令(そうぶじれい)」という私戦禁止令を布告して、諸大名に国境の勝手な変更は認めないと宣言していた。
 天下人秀吉と対決するのか否か−。同年正月、島津家中では評定のうえ、豊後侵攻を決定し、太守義久が大乗院護摩所(ごましょ)(現・鹿児島市稲荷町)でくじ取りをして、攻め口を肥後口と日向口の両方からと定めた。 さつま人国誌
 しかし、豊後に攻め入れば秀吉の激怒を買う。秀吉という大敵と正面から対決できるのか、家中には自重論もあった。その代表がじつは義久で、なかなか豊後侵攻の命を下さなかった。
 一方、主戦派の代表は義久の次弟の義弘(日向飯野城主)と末弟の家久(日向佐土原城主)だった。とくに家久は太守義久に無断で上井覚兼(うわいかっけん)、鎌田政近(まさちか)、山田有信(ありのぶ)など日向の地頭と語らって独自に豊後侵攻を計画し、この計画に義弘も巻き込もうとして分派を形成した。
 義弘は家久に同調しなかったものの、所領の真幸院(まさきいん)にある今宮社で独自にくじ取りをして、「御行(おんてだて)(合戦)は7月中がよい」という卦(け)が出たと、義久に報告して遠回しに圧力をかけた。くじ取りは当主の専権事項という大原則さえ破られはじめていた。
 苦悩する義久に、筑前で島津氏に服属していた筑紫広門が離反したという一報が入る。6月16日、義久はあらためて霧島六所権現(現・霧島神宮はそのひとつ)でくじ取りを行う。それは、(1)既定方針どおり豊後侵攻、(2)筑紫氏征討のため筑前出陣、の2択。結果は(2)と出た。義久は豊後侵攻を延期させて全軍を筑前に向けた。
 だが、このくじ取りは不自然である。すでに豊後侵攻に方針が決しているのに、あらためてくじ取りする理由はない。
 くじ取りの直前、毛利輝元(安芸広島城主)に使いとなっていた修験者の面高善哉(おもだかぜんざい)坊が帰り、義久に何事か報告している(「上井覚兼日記」6月16日条)。義久は親交のある輝元に秀吉の九州下向が本気かどうか問い合わせ、秀吉が本気だと知り、それがくじの結果に作用したのかもしれない。
 義久は、筑紫氏との戦いなら秀吉の私戦禁止令に抵触しないと考えて、ギリギリの線で避戦の道を模索したのが、このくじ取りだったのではないか。
 しかし結局、義久は家中の主戦論を押さえられず、秀吉と全面衝突したあげく敗北する。翌15年5月、川内泰平寺(現・薩摩川内市)で秀吉に降伏した。人為の動揺によって「神慮」が迷走した末の敗北だった。
 その後、義久の後継者・忠恒(のち家久)の代になると、くじ取りはなくなる。このことは島津家の中世から近世への転換を示しているかもしれない。

(歴史作家・桐野作人) 

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