
■ 大学野球で活躍後、戦死
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(左)野球体育博物館にある戦没野球人モニュメント(右)西郷準の名=東京ドーム |
東京ドームのなかに野球体育博物館があるのをご存じだろうか。わが国の野球の歴史がよくわかるさまざまな資料が展示され、野球殿堂入りした人々のレリーフも飾られている。
その一角、ひっそりと壁にかかっているのが、「戦没野球人モニュメント」である。2005年11月、戦後60年の節目に戦死したアマチュア野球人を慰霊するためにつくられたもの。
中等学校(旧制中学、高校)、大学、社会人の野球人で、所定の大会やリーグ戦に出場し、日中戦争や太平洋戦争で戦死した選手を対象に、現在172人が記名されている。
そのなかに、西郷準(ひとし)(1916−45年)という名前がある。鹿児島二中(現・甲南高校)から立教大学に進み、東京六大学で活躍した選手である。
名前からおわかりのように、彼は西郷隆盛の孫である。西郷と愛加那の間に生まれた菊次郎(のち京都市長)は7男7女の子だくさんで、準は1番下の末っ子だった。
野球が好きな準少年は鹿児島二中に進み、甲子園をめざしたが果たせず、35(昭和10)年、立教大学に進学した。その年の秋季リーグ戦、準は対帝大(現・東京大学)戦で初めて神宮球場のマウンドに立った。それは鮮烈なデビューだった。「立教大学野球史」には次のように書かれている。
「立教は期待の新人西郷(鹿児島二中、西郷隆盛の孫)をマウンドに立てた。西郷は二回帝大に二点を先取されたが四回自ら右翼席へ大ホームランを放ってからすっかり立直り、剛球と巧みに混じえるドロップを武器に帝大を六安打散発に抑えて初陣を飾った」
この試合、準は完投勝利を飾ったばかりか、8番バッターながらホームランを含む4安打と猛打をふるったのである。
鹿児島出身の野球ジャーナリスト・城井(きい)睦夫氏が準の姉・瀬脇潔子(すみこ)さんに準のデビュー戦を観戦したときの話を聞いている。それによれば、帝大に2点先制されたときは、「西郷どん、犬はどうした」というヤジが飛び、準がホームランを打ったときには、球場を揺るがさんばかりの大喝采だったという(「史」95号)。
その後も、準はエースにして強打者として活躍、さらにキャプテンの重責も担った。在学中、投手としては58試合に登板、18勝20敗2分けだったが、打者としては、38年春季リーグで、早稲田の南村不可止(侑広(ゆうこう)、のち巨人)と首位打者を争い、4割7分6厘ながら4厘差で2位。同年秋季リーグでは法政の鶴岡一人(のち南海監督)に及ばず2位。40年春季リーグでも惜しくも2位となるなど神宮の強打者として鳴らした。
しかし、時代はますます戦時色が強まっていった。もともと「敵性」スポーツだけに、文部省の統制も厳しく、東京六大学野球もシーズン開幕日には役員、選手全員での明治神宮参拝、入場行進も海軍軍楽隊の演奏で行われ、42年、ついに中止された。
準は41年に立教を卒業し、帝国生命に就職したが、その後応召、45年5月28日、フィリピン・ルソン島で戦死した。享年29歳。
若くして逝かざるをえなかった準はもっと野球がしたかったのではないだろうか。また今年も8月15日が来る。
(歴史作家・桐野作人)
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