
■ 間諜に徹し無残な最期
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富山らが新選組に襲撃された油小路事件の碑
=京都市下京区 |
幕末の京都で、薩摩藩と新選組はもっとも対極の立場にあり、ほとんど接点がない。それでも、薩摩から新選組隊士になった者がいたことをご存じだろうか。
富山弥兵衛(とみやま・やへえ)(1841?〜68年)である。文久元(61)年ごろに脱藩した富山が上洛して新選組に入隊したのは元治元(64)年である。西村兼文「新撰組始末記」に、富山の入隊のいきさつが書かれている。
「又薩藩、此隊(新選組)の挙動を深く憎み、之(これ)を探らん為、藩士内田仲之助(ちゅうのすけ)、家来富山弥兵衛(初名四郎太)と云へる者、壮士先に洛東大仏に於て人を殺害し、放逐せられたるが、此隊に入る」
内田仲之助は京都の薩摩藩邸の留守居役である。富山は内田の家来だったが、東山の大仏(方広寺周辺)で殺人を犯して追放された揚げ句、新選組に入隊したとする。もっとも、内田は新選組の内情を探らせるために富山を間諜(かんちょう)として送り込んだと、西村はいうのだ。
薩摩人の入隊に、当然ながら近藤勇が警戒した。近藤を説き伏せて入隊に尽力したのは、参謀の伊東甲子太郎(かしたろう)だった。
富山が新選組の隊内で諜報(ちょうほう)活動をした形跡も残っている。慶応2(66)年6月、第2次征長戦争のとき、芸州(現・広島県)に出張した新選組監察の山崎烝(すすむ)と吉村貫一郎が京都へ送った戦況報告書の内容が内田の手に渡り、さらに「四郎太より」として大久保利通に報告されている。富山の働きに違いない。
富山の運命が変わったのは、新選組の分裂騒ぎである。同3年3月、伊東ら十数人が新選組から分派した。いわゆる高台寺(こうだいじ)党である。このとき、富山も世話になった伊東を慕って脱退している。
しかし11月18日夜、伊東が七条油小路で新選組に暗殺され、急を聞いて駆けつけた高台寺党も、待ち伏せていた新選組と乱闘になって敗れた。油小路事件という。
逃走した富山は三樹(みき)三郎(伊東の実弟)、加納道之助とともに大久保邸に駆け込んで、中村半次郎(のち桐野利秋)に庇護(ひご)された。
その後、鳥羽伏見の戦いでは、中村の配下として幕府軍と戦い、背中に銃創を負っている。負傷が癒えると、富山は北陸道総督府参謀の黒田清隆の命により北陸道から会津方面への探索に向かった。
越後に入った富山だったが、出雲崎で水戸藩佐幕党の一隊に捕まり尋問を受けた。番人のすきをついて隠し持っていた短刀で縄を切り脱出したが、山中に迷い込んだところを追っ手に追いつかれた。富山は一人を倒したが、多数の追っ手のために進退窮まった。その最期は壮烈なものだった。
「弥兵衛誤て水田に踏み込み四面敵を受け、ここに於いて死を決し、大声に賊を詈(ののし)り、短刀を以て肉戦すること暫時にして遂に殪(たお)れる」(「秦林親(はた・しげちか)日記」)
富山の首級は出雲崎口にさらされた。その告文には「薩州藩賊、後世諸士の亀鑑(きかん)、大丈夫の士也」とあったという。敵も富山の奮戦を認めたのである。のちに富山の遺骸(いがい)は北越に出張してきた西郷隆盛によって柏崎招魂場に合祀されたのが、せめてもの救いだったかもしれない。
富山は新選組へ間諜として潜入したものの、薩摩藩に戻ってからもやはり間諜のような役割しか与えられなかった。その最期は無残だったという気がしてならない。
(歴史作家・桐野作人)
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