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'07/09/15 本紙掲載 
     
 

知られざる薩州島津家(中)

■ 義虎にも将軍から1字

島津義虎夫人・於平の墓=霧島市国分上井

 前回、薩州島津家の5代・実久(さねひさ)が一時期、守護職に就いたことを明らかにした。その実久が島津日新斎(じっしんさい)、貴久親子に敗北したのち、跡を継いだのは嫡男の義虎(1536?−85年)である。
 義虎は父と異なり、新たな本宗家となった貴久、義久親子と融和・協調の道を選択する。義虎は守護義久の長女・於平(おひら)(1551−1603年)を妻に迎えて義久の婿になった。薩州島津家がその地位を保全するためにも、義虎の決断は賢明だったといえよう。
 ただ、この縁組がいつだったのかはよくわからない。私は永禄8(1565)年前後ではないかと考えている。於平が15歳であること、また於平の子とされる嫡男忠辰(ただとき)が翌9年12月生まれであることが理由である。
 貴久、義久がかつての宿敵である薩州島津家となぜ縁組を結んだのか。本宗家を継いだとはいえ、薩摩、大隅両国にまだ多くの敵対勢力を抱えているだけでなく、日向の伊東氏や肥後の相良(さがら)氏とも対立していたから、北薩に勢力を張る薩州島津家との同盟は、悲願の三州統一にも有利だったからだろう。
さつま人国誌 いま「同盟」という言葉を使ったが、薩州島津家は縁組の時点で、本宗家に完全に服属したわけではなく、なお独立性を保っていたと思われる。それは南九州の枠を超えた、室町幕府との関係によく表れている。
 じつをいうと、薩州島津家は実久の代から室町幕府と縁が深い。「本藩人物誌」によれば、実久は天文22(1553)年閏正月に上洛して将軍義輝に拝謁(はいえつ)し、数カ月間京都に滞在している。公家の山科(やましな)言継(ときつぐ)の日記「言継卿記」同年5月2日条によれば、足利将軍家の菩提(ぼだい)寺・等持(とうじ)寺(のち等持院)の祥瑞会(しょうずいえ)という儀礼参加者のなかに「薩摩国之島津薩摩守入道」が見える。実久のことである。
 義虎もまた実久と同様に、永禄6(1563)年に上洛した。注目すべきは将軍義輝に拝謁し、1字を頂戴(ちょうだい)して義俊と名乗っていることである(のち義虎に改名)。将軍からの1字拝領はふつう、守護クラスの大名に許されるもの。義久も同様に義輝からの1字拝領である。
 また将軍義輝の家臣団を書き上げた「永禄六年諸役人附」のなかに「外様衆 大名在国衆」として、北条氏康、上杉輝虎(謙信)、武田晴信(信玄)といったそうそうたる大名が居並ぶなか、島津貴久、義久親子とともに、種子島左近大夫入道(時尭)と「嶋津薩摩守義俊(義虎)」の名前があげられている。
 つまり、足利将軍家との関係に限れば、義虎は貴久、義久と同格だったわけである。
 在京中の義虎の動静も少しわかる。「言継卿記」によれば、1月28日、近衛家での和歌の会に出席し、2月7日には蹴鞠(けまり)の家として知られる公家の飛鳥(あすか)井(い)邸で、何と、義虎が主宰した蹴鞠の会が興行されている。将軍奉公衆が多数見物するなか、義虎は関白近衛前久(さきひさ)をはじめとする堂上(とうしょう)公家と蹴鞠に興じたのである。
 この上洛は長期間にわたったので、滞在費のほか、将軍家や公家衆への礼銭・進物など莫大(ばくだい)な費用がかかったはずで、義虎の豊かな財力がうかがえる。義虎の生涯で最良の時期だったかもしれない。
 義虎は本宗家との関係を良好に保ったまま、天正13(1585)年に他界する。だが、豊臣秀吉の九州侵攻が目前であり、残された夫人於平とその子どもたちには過酷な運命が待ちかまえていた。

(歴史作家・桐野作人) 

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