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'07/10/13 本紙掲載 
     
 

大久保利通と妙円寺参り

■ 鎧を着けて「志気凛々」

徳重神社に到着した武者行列=2006年10月21日、日置市伊集院

 鹿児島では、毎年10月の第4日曜日に妙円寺参りがある。
 慶長5(1600)年9月15日、島津義弘は関ケ原で敗北すると、敵陣の中央突破を敢行し、多くの犠牲者を出しながら国元に帰還した。
 その苦難と壮挙をしのぼうと、旧暦の9月15日に近いこの日に、鹿児島市から義弘の菩提(ぼだい)寺である伊集院の妙円寺(現・徳重神社)まで、約20キロを徒歩で踏破して参詣する。甲冑(かっちゅう)姿で参詣する人々も多く、いかにも鹿児島らしい勇壮な行事として知られている。
 妙円寺参りがいつから行われるようになったのか、はっきりわかっていない。いつしか自然発生的に始まり、江戸時代末期には鹿児島城下の下方限(ほうぎり)地区(鹿児島市役所より西方)に属する二才(にせ)や稚児たちが9月14日夕方から参詣に向かい、翌15日未明までに往復して帰宅するならわしだったという。
 幕末においては、天保年間(1830−43年)の末から弘化年間(1844−47年)の初めまでの数年間、理由は不明だが、妙円寺参りは禁止されていた。それでも、こっそりと参詣する人はあとを絶たなかった。
さつま人国誌 文久2(1862)年9月15日には、藩主島津茂久(もちひさ)自ら、騎乗で妙円寺参りをしている。またこの年から甲冑を着しての参詣が正式に許可されたという。折から生麦事件の直後で英国艦隊の来襲が予想されていたから、妙円寺参りも藩主率先の軍事教練的な意味合いが強まったのではないだろうか。
 それに先立つ嘉永元(1848)年、大久保利通が妙円寺参りしたことを日記につけている。ときに19歳、多感な年頃である。
 日記によれば、参詣したのは10月14日夕方からである。なぜ1カ月遅いのか、よくわからない。
 大久保は朝に知り合いから太刀を借用するとともに、鎧(よろい)の繕いも頼んでいる。先祖伝来の鎧が利通の身体に合わず、どこか痛い部分があったらしい。
 出発したのは午後4時すぎ。鶴丸城大手門あたりから千石馬場を通ると、多数の見物人が詰めかけていた。そして西田橋を渡って、水上坂(みつかんざか)(現・鹿児島市常盤町)を登る。現在の妙円寺参りと同じルートである。水上坂は参詣での一番の難所だった。
 坂の上で加治屋町方限の仲間が通りかかったので、大久保も同道した。西郷吉之助(隆盛)のほか、亀山杢大夫(もくだゆう)、東郷吉左衛門(平八郎の父)、平田正十郎、福島半之進などである。
 すでに夕闇が迫っていた。歩くにつれて、大久保の気持ちは次第に高ぶってきた。日記にも次のように書いている。
 「月もおぼろにて、甲冑霜に映し、あたかも戦場に臨むに異ならず。志気自ら凛々(りんりん)」
 妙円寺に着いて参詣したのが夜中の12時ごろだった。大久保は厳粛な気持ちで拝礼した。
 「礼拝のとき、先公(義弘)のご尊霊を感得、ご喜悦たるべきか」
 参詣の途中、大久保は他の方限の者たちが一座となってのんびりと歓談しているのを見て、「国家(薩摩藩)の罪人だ」とも書いており、きまじめさを見せている。
 参詣ののち、大久保たちは伊集院で弁当を食べ、夜明け前の午前4時すぎに帰りつき、西田橋で別れたという。
 幕末も現代も、妙円寺参りの光景はそれほど変わらないのではないだろうか。

(歴史作家・桐野作人) 

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