
■ 「人斬り」新兵衛も眠る
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| 即宗院にある田中新兵衛の墓=京都市東山区 |
前回紹介した京都・東福寺の塔頭(たっちゅう)である即宗院(そくしゅういん)には、幕末京都のちまたで「人斬(き)り」と恐れられた田中新兵衛(雄平、1832?−63年)の墓がある。
文久2(1862)年7月、京都木屋町で九条家の家士だった島田左近が暗殺された。左近は佐幕派の関白だった九条尚忠(ひさただ)の意を受けて、大老井伊直弼(なおすけ)の腹心・長野主膳と通謀していた。これが文久年間に横行した尊王攘夷(じょうい)の激派による天誅(てんちゅう)の幕開けとなった。
暗殺実行者は薩摩藩の鵜木(うのき)弥兵衛、志々目(しじめ)献吉と新兵衛だった。3人は左近の妾宅(しょうたく)を襲撃した。踏み込まれたのを察知した左近は脱兎(だっと)のごとく逃走したが、新兵衛が追いかけて一太刀で斬り伏せた。
あとで有村俊斎(のち海江田信義)が「そのとき、鵜木と志々目はどうしていたのか」と尋ねると、新兵衛は「お侍さんは足が遅うございます」と答えたという。
この逸話などから、新兵衛は町人出身だといわれている。のちに姉小路(あねがこうじ)公知(きんとも)暗殺事件についての藩当局の布達によれば、新兵衛は薩摩の豪商で精忠組に加わった森山新蔵(棠園(とうえん))の手伝いとある一方で、「島津織部(おりべ)家来」でもあった。
宮之城島津家の庶流に島津織部久厚という一所持(いっしょもち)格の人物がいる。これが新兵衛の主人だろう。つまり、新兵衛は島津分家の家来、私領士という身分だったことになる。
新兵衛がなぜ天誅というテロリズムに手を染めたのか。
一説によれば、島津久光が公武合体策をとり、寺田屋事件で激派を弾圧して世間の不興を買っていたため、天誅の口火を切ることで、薩摩藩の名誉を回復しようとして、腕の立つ新兵衛を利用したという。その黒幕は在京薩摩藩の要人だった藤井良節や本田親雄(ちかお)ではないかといわれる。もしそうなら、新兵衛は使い捨ての駒だったのか。
だが、新兵衛も時代の波をかぶっている。土佐勤王党の首領・武市半平太と兄弟の盟約を結んだことから、天誅の主たる担い手だった土佐藩激派と近い思想の持ち主だったのだろう。
翌3年5月20日、攘夷派の堂上(とうしょう)公家として知られた姉小路公知が禁裏御所朔平(さくへい)門外で暗殺された。公知が幕府軍艦に乗艦して大坂湾を視察し、攘夷の不可なることを公言したことが攘夷派に変節だとみられたためという。
襲撃現場には、刺客が落とした刀があった。検分により「薩刀らしき拵(こしらえ)」と判明する。そのため26日、京都守護職の会津藩の捕り手が錦小路の薩摩藩邸近くの民家にいた新兵衛と仁礼(にれ)源之丞(景範、のち海軍大臣)を捕縛し、京都東奉行所に押し込めた。
捕縛されたとき、新兵衛は負傷していた。それが刺客に手傷を負わせたという公知の家来の証言と一致した。さらに現場に落ちていた薩摩拵の刀を証拠として突きつけられると、新兵衛は突如、証拠の刀か脇差(わきざし)で屠腹(とふく)して果てた。近年の研究では、新兵衛が下手人の1人だった可能性は高いという。
新兵衛の自害によりさらに薩摩藩への嫌疑が強まり、禁裏御所乾(いぬい)門の警衛の任を罷免されたうえ、禁裏内への立ち入りを禁止されるという政治的打撃を被った。
それでも、新兵衛の遺骸(いがい)は罪人扱いされずに薩摩藩の菩提(ぼだい)所である即宗院に葬られた。自供せずに自害の道を選んだ新兵衛を、薩摩藩はぬれぎぬを着せられたのを恥辱としたか、武士の本分を守ったと判断したゆえだろうか。
(歴史作家・桐野作人)
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