
■ 先祖の名誉回復期する
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| 桐野 利秋 |
今年は西郷隆盛の没後130年だが、運命をともにした桐野利秋もそうである。
桐野は「人斬(き)り」の異名で知られているかと思えば、会津若松城の受け取りで、松平容保(かたもり)父子の悄然(しょうぜん)とした姿を見て「男泣きに泣いた」という英国外交官アーネスト・サトウの証言もある。
また薬丸自顕流の達人として、いかにも陽性な木強者(ぼっけもん)らしいイメージがある一方で、西南戦争では判断や采配(さいはい)を誤った凡将ではないかという批判もある。
このように、桐野に対する評価は振幅が大きい。しかも、こうした桐野像は史実と伝説がないまぜになって形成されているから、ややこしい。ここでは、なるべく史実や史料に即して、桐野の事績を多面的に見ていきたい。
まず、中村半次郎から桐野利秋に改めた時期はいつで、いかなる事情があったのだろうか。より正確にいえば、中村半次郎から桐野信作への改姓・改名と考えるべきだろう。実名(諱=いみな)の利秋は一貫して変わっていないと思われるからである。
改姓・改名は明治になってからだろうと漠然と考えられているだけで、詳しく追求されていない。
私が知る範囲で、史料上に中村半次郎の名前が最後に出てくるのは、明治4(1871)年8月5日付の伊地知正治あて西郷書簡である(「西郷隆盛全集」3)。
一方、それから5日後の同月10日には吉田清成(旧薩摩藩士、のち農商務次官、枢密顧問官)にあてた本人の書簡があり、桐野信作と署名している(堂満幸子「吉田清成関係文書の紹介」)。これがおそらく桐野名字の初出ではないだろうか。
桐野は同4年3月、御親兵の大隊長として鹿児島から上京する。そして7月20日に兵部省出仕を命じられ、同28日に陸軍少将に任官、同日に従五位(じゅごい)に叙せられている。
改姓・改名のきっかけはこの栄達だと考えてよい。西郷書簡がまだ中村半次郎のままなのは、改名情報が届くのが遅れたか、日頃の習慣でうっかり旧名を書いてしまったからだろう。
なお、信作という通称は長州藩士の高杉晋作への私淑ゆえとされるが、確証はない。
では、中村から桐野への改姓にはどんな事情があったのか。
「本藩人物誌」という戦国時代の人名事典に、桐野九郎左衛門(清敷(きよしき)郷士)という人物がいる。これが桐野の先祖だと思われる(「西南紀伝」下2)。慶長15(1610)年、島津義久の家老・平田増宗が所領の入来で鉄砲で撃たれて暗殺された。背後に島津義弘・忠恒(家久)父子の密命があったとされる。銃撃したのは義弘の家来・押川強兵衛で、九郎左衛門はその案内役をつとめたという。
家老を暗殺したために、九郎左衛門は褒美の銀子をもって肥後に出奔した。ほとぼりが冷めたころに帰参して、家久から10石(20石とも)を与えられたという。
しかし、暗殺の負い目のために世をはばかってか、九郎左衛門の子孫は桐野を名乗れず、「外祖」(母方か)の名字である中村を名乗らざるをえなかった。
陸軍少将という顕官への昇進こそが先祖の名誉を回復して本姓に復帰するにふさわしい区切りだと、桐野は判断したのではないだろうか。
(歴史作家・桐野作人)
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