
■ 義弘食ったぼっけもん
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| 中馬大蔵の墓=阿久根市脇本 |
江戸時代はじめのことである。鹿児島城下の二才(にせ)たちが25里(約100キロ)の道を歩いて、出水の中馬大蔵(ちゅうまんおおくら)(1564−1635年、大蔵允〔おおくらのじょう〕重方(しげかた))を訪ねた。
慶長5(1600)年の関ケ原合戦からすでに2、30年たっていた。中馬もすでに還暦を越えていただろうが、合戦従軍者のなかの数少ない生き残りだった。
二才たちは城下の咄合中(はなしあいじゅう)(のちの郷中教育の前身)に属し、関ケ原の合戦談を中馬からじかに聞くために、はるばるやってきたのだ。
応対した大蔵は二才たちが麻上下の盛装をしているのを見て、自分も盛装し、威儀を正して二才たちと対座した。
二才たちが「後学のために、ぜひに関ケ原での武勇談をお伺いしたい」と頼んだ。二才たちは中馬の口から出てくる言葉を一言も聞き漏らすまいと真剣なまなざしを向けている。
ところが、話を切り出そうとした中馬だったが、意外な成り行きになった。
「(中馬は)麻上下で床を背にして坐(すわ)り、『関ケ原と申すは…』と言い出したものの、みるみるうちに感涙があふれ出て、それから先、一言も語ることができなかった。二才衆も同様で、しばらく呆然(ぼうぜん)とするしかなかった。二才たちは帰路の道すがら、関ケ原の話はこれまで何度も承ったが、そのどれよりも優れていたと語り合い、言葉にできないほどの難儀を思いやったという」(「薩藩士風沿革」)
中馬の朴訥(ぼくとつ)で涙もろい性格が察せられる逸話である。
中馬は義弘のお気に入りの家来だったらしく、「中馬大蔵殿は惟新(いしん)公(義弘)別して御秘蔵の人」といわれている(「薩藩旧伝集」)。
慶長5年、義弘は朝鮮での武功により、豊臣政権から出水の薩州島津家旧領など5万石を与えられた。それに伴い、中馬も出水に移って知行を得た。
同年秋、東西激突の形勢になった。義弘の命に応じて、その重臣・川上忠兄が出水の米ノ津港から兵を率いて上ると聞いた中馬は、友人の長野勘左衛門と米ノ津港に駆けつけたが、すでに船は出航していた。
中馬が大声で叫んでも船は戻ってこない。すると、中馬は何を思ったか、陸路を走り出し、夜を日に継いで、そのまま関ケ原まで千数百キロを走破したという。義弘が喜んだことはいうまでもない。
だが、関ケ原では敗軍となった。わずかな人数の義弘主従は3日間、伊勢や近江の山中を逃避行した。中馬は義弘の乗った駕籠(かご)の後ろを担って走った。
山中なので食料もなく、主従は飢えはじめた。しかたなく軍馬を食料にせざるをえなかった。ある家来がその馬肉を義弘に差し出そうとした。そのとき、中馬が発した言葉が面白い。
「中馬大蔵はそれを見つけると、そなたはその馬肉を殿へあげてはならぬぞ。それは我々(われわれ)の食い物である。殿は我々に担われておられるのだから、気遣いする必要はない。我々が腹が空いてくたびれたら殿はどうなる。殿にあげるのはもったいない」(「薩藩旧伝集」)
中馬のずけずけした物言いに、義弘の苦笑いする顔が見えるようである。
かくして、義弘を守って無事帰国した中馬は50石を加増され、出水郡脇本(現・阿久根市)の仮屋守(かりやもり)となって生涯を終えた。享年72歳。
(歴史作家・桐野作人)
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