
■ 信長に対する不満一因
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近衛前久が揮毫した「三十六歌仙絵扁額」=出水市立歴史民俗資料館提供 |
摂関家筆頭の近衛家と島津一族は、家門と門流という一種の主従関係で永年結ばれてきた。平安時代末期、惟宗(これむね)忠久=島津家初代忠久=が藤原氏の荘園である島津荘(現・都城市など)の惣地頭(そうじとう)となって以来である。
時代が下って江戸時代、島津家からは広大院茂姫〔島津重豪(しげひで)の娘〕と天璋院(てんしょういん)篤姫〔島津斉彬の養女〕という2人の将軍御台所(みだいどころ)を輩出したが、ともに近衛家の養女という形で入輿(じゅよ)している。また幕末期の当主である近衛忠煕(ただひろ)、忠房父子もそれぞれ島津斉興(なりおき)と斉彬の娘(養女)を夫人にしている。
有名な島津日新斎(じっしんさい)〔1492−1568年〕の「いろは歌」を添削したのも、関白太政大臣だった近衛稙家(たねいえ)〔1503−66年〕である。ほかにも古今伝授を島津義久や樺山玄佐(げんさ)〔島津家重臣〕に伝えるなど、近衛家が文化面で果たした役割も大きい。
このような近衛家と島津家の交流のなかで、異彩を放っているのは近衛前久(さきひさ)〔1536−1612年〕であろう。戦国・織豊期の当主で、右の稙家の嫡男であり、関白太政大臣に上っている。
前久については「流浪の戦国貴族 近衛前久」(谷口研語著、中公新書)という著作があるように、京都を離れて長く地方に在国するという変わった経歴をもった公家だった。
地方在国は都合5度、11年の長きにわたっている。とくに有名なのが、上杉謙信を頼っての越後、関東下向である。
そして、この前久が薩摩にも下向し、長く滞在していることはあまり知られていない。
前久が九州へ旅立ったのは、天正3(1575)年9月のことである。豊後の大友宗麟、日向の伊東義祐、肥後人吉の相良(さがら)義陽(よしてる)に歓待を受けたのち、同年12月25日、薩摩に入国し、出水を領する薩州家の島津義虎のもとに滞在した。義虎は永禄6(63)年に上洛して近衛家にあいさつしたことがあった。前久はその縁を頼ったのだろう。
さて、前久の下向の目的は何だったのか。前久が太守島津義久にあてて、あらかじめ薩摩下向を知らせた書簡には次のように書かれていた。
「信長の頼みで一度帰洛したが、家領を与えてくれないので何かと不如意で困っている。この節、薩摩に下って島津家のために奔走したい。また家門(近衛家)再興のために、ひとえに頼み入る」
織田信長に対する所領の不満から「家門再興」が実現しないことが、薩摩下向の一因だったようである。
前久の出水滞在は3カ月という長きにわたった。薩州家の義虎と懇意とはいえ、長すぎる気がする。前久が鹿児島に向かったのは翌4年3月中旬だった。鹿児島滞在は2カ月ほどだった。
その帰路、前久は再び出水に立ち寄っている。このとき、義虎の求めに応じて、「三十六歌仙絵扁額(えへんがく)」に揮毫(きごう)した。それはのちに義虎によって愛宕神社に奉納されて現存している。絵を狩野(かのう)雄尽が描き、和歌の筆をとったのが前久である。義虎は馬好きの前久に瀬崎野という名馬をお礼に贈っている。
前久の薩摩下向のころ、島津氏は日向の伊東氏との対決が最終局面を迎えていた。前久は薩摩入国の前に伊東義祐とも会見しており、島津氏と伊東氏の和睦を調停しようとした節がある。伊東氏を攻めつぶそうと考えていた義久にとって、前久の調停はじつのところ迷惑で、娘婿の義虎に頼んで出水に引き留めたのかもしれない。
(歴史作家・桐野作人)
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