
■ 坊津に多くの伝承残す
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近衛信尹寓居跡に立つ碑=南さつま市坊津 |
前回、摂関家の近衛前久(さきひさ)(関白太政大臣)が薩摩に下向したことを紹介した。
それから十数年後の文禄3(1594)年4月、今度はその嫡男信尹(のぶただ、1565−1614年)も薩摩に来ている。もっとも、罪を得ての配流だった。
信尹ははじめ信基(のぶもと)といい、織田信長が烏帽子親(えぼしおや)になって元服した。その後も、摂関家筆頭の御曹司として順調に昇進を重ね、出家した父前久の家督も継いだ。
ところが、武家の豊臣秀吉が信尹の後を追うように官位昇進してきた。焦ったのは信尹である。天正13(1585)年、左大臣だった信尹はこのままでは自分を差し置いて秀吉が関白となってしまうと思い悩む。
その揚げ句、信尹は一時期でも関白になろうと、現任の関白だった二条昭実に関白を譲ってくれるように申し入れる。怒ったのは昭実である。昭実も関白職に就いたばかりで、「二条家では、歴代の当主で1年足らずのうちに関白を辞した者はいない」と譲らなかった。
信尹と昭実の争いは「関白相論(そうろん)」と呼ばれた。そして、両者の仲介役となったのが秀吉で、両者を痛み分けとしたうえで、自分が関白に任官してしまう。
信尹は激怒して「関白は昭宣(しょうせん)公(はじめての関白・藤原基経)以来、今日に至るまで凡下(ぼんげ)の望む職ではない」と吐き捨てる。凡下とは庶民という意味で、身分の低い秀吉をあてこすったのは明らかだった。
秀吉は信尹に1年以内に関白職を譲ると約束したが、それは果たされなかった。信尹は屈折し、強度の心神喪失状態に陥った。さらに文禄元(1592)年、秀吉は関白職を甥(おい)の秀次に譲って豊臣家で独占する意志を示した。信尹の一縷(いちる)の希望はついえ去った。信尹は傷心のうちに左大臣を辞す。
それからほどなく、信尹は何を思ったのか、家を捨て、名字も所領にちなんだ「岡ノ屋」に改めて、秀吉に「武辺の奉公」を願い出た。折からの朝鮮出兵に従軍しようというのである。興福寺の僧侶は信尹の不審な挙動にあきれて日記に「物狂」と書いたほどである。
秀吉も不興を覚えて朝廷に訴えた。同3年4月、後陽成(ごようぜい)天皇もついに信尹に勅勘(ちょっかん)=天皇の勘当=を下し、秀吉は信尹に薩摩への配流を命じた。
現在、南さつま市坊津の龍巌寺の近くに近衛屋敷跡が残っている。配流された信尹の寓居(ぐうきょ)跡である。信尹が坊津の配所にいたのは翌4年9月までの1年半近くである。その後、鹿児島に移って領地も与えられた。秀吉の死後、念願の関白にもなっている。
坊津時代の信尹のことはよくわかっていないが、多くの伝承が残されている。
「三国名勝図会(ずえ)」によれば、信尹の寓居の庭には古紫藤が植えられ、「近衛藤」と名づけられた。信尹も藤公(とうこう)と呼ばれている。近くの硯(すずり)川という泉水は信尹が硯水をくんだという。久志秋目には信尹が座ったという亀石もある。坊津の名刹(めいさつ)・一乗院には信尹の書簡と連歌一軸が所蔵されているというし、境内には関白天神祠(し)がある。信尹が彫った菅原道真の木像を安置したという。
一方、川辺郡野間村(現・南九州市川辺)には、近衛桜があった。坊津からこの地に足を伸ばした信尹がつえを置いたところ、それから根が出て見事な桜になったという。
摂関家という貴種の配流が地元の人々の好奇心と同情を呼び起こしたことから、多くの伝承が生まれたのだろう。
(歴史作家・桐野作人)
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