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'08/01/19 本紙掲載 
     
 

前島密と大久保利通

■ 遷都と奇夢が結ぶ因縁

紀尾井坂に立つ大久保利通の哀悼碑=東京都千代田区

 前回、前島密(ひそか)と薩摩の意外なかかわりを紹介した。その前島がもっとも親しく、尊敬していた薩摩人が大久保利通である。明治はじめ、前島が内務少輔(しょうゆう)だったとき、大久保は上司の内務卿だった。
 明治維新の諸変革のなかで、わが国の姿を大きく変えたのが東京遷都であろう。鳥羽伏見の戦いが終わった直後の慶応4(1868)年1月23日、大久保は早くも遷都の建白書を提出している。もっとも、遷都先は東京ではなく大坂(のち大阪)だった。
 大久保の遷都論を知って、首都は大坂ではなく江戸であるべきだと痛感し、大久保に建言書を提出したのが前島だった。
 当時、前島は幕臣(幕府開成所教授)で、前島来輔(らいすけ)と名乗っていた。戊辰戦争のさなか、幕臣の前島が京都にいる新政府首脳の大久保に建言書を提出するのは至難の業だった。前島は英国外交官のアーネスト・サトウの斡旋(あっせん)でようやく大坂まで赴いたが、ついに大久保には会えず、建言書を人に託して送付した。前島は大久保が読んだかどうか知らずにいた。
 8年後の明治9(1876)年春、内務卿の大久保は東京市(当時)の市区改正問題を前島を含む部下たちと協議しているとき、思い出したかのように次のように語った。
さつま人国誌 「そういえば、過ぐる維新のころ、遷都の地は江戸のほかないと論じて書を投じた江戸人がいた。彼は前島君と同じ姓で来輔という名前だった。今となっては、彼の卓見に感謝し、記録に残しておかないといけないが、その投書をなくしてしまったので、その主が誰だかわからずじまいなのが惜しまれる」
 同席していた前島はあまりの愉快さにこらえきれずに「閣下、その主は御前におりますこの前島密でございます」と答えた。
 すると、大久保はおもむろに立ち上がって、テーブルをたたき、「おおっ、君だったのか。迂闊(うかつ)だった。許してくれたまえ」と謝った。
 大久保が凶変に倒れる1カ月前、前島は大久保邸の晩餐(ばんさん)に招かれ、夜半まで親しく談じ込んだ。そのとき、大久保が西郷隆盛の思い出話をしながら、「じつは昨夜、奇夢を見た」と次のように語った。
 「なぜか西郷と断崖(だんがい)の上で殴り合いをしており、2人して抱き合いながら崖(がけ)下に転落したのだ。すると自分の頭蓋(ずがい)が破れ、脳がピクピクと微動するのを見ている自分がいた。じつに不思議な夢だ」
 前島も奇異な感に打たれたが、そのままにしていた。それからほどない5月14日、前島は赤坂仮御所の太政官に出仕し、大久保の到着を待っていたが、紀尾井町で凶変ありと聞き、急ぎ現場に駆けつけた。そこには変わり果てた大久保の姿があった。
 前島は茫然(ぼうぜん)自失となったが、気を取り直して遺体の点検をした。前島は遺体の様子を自叙伝「鴻爪痕(こうそうこん)」に「肉飛び骨摧(くだ)け、又適々(たまたま)頭蓋割けて、脳の猶微(ちいさ)く揺(うご)くを見る。是何等の景ぞ」と書いている。
 まさに大久保が見た奇夢の通りだったので、前島は戦慄(せんりつ)した。
 前島は晩年まで大久保を追慕した。人に揮毫(きごう)を求められると、よく次の漢詩を書いた。
 落日光消薄暮天/寒鴉枯木惨荒煙/不知風露侵肌骨/駐杖保公新廟辺
 4句目の「保公新廟」が東京・青山墓地の大久保墓所だろう。晩年の前島はたびたび大久保の墓所にたたずんだのである。

(歴史作家・桐野作人) 

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