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'08/01/26 本紙掲載 
     
 

石河確太郎と英国留学生

■ 渡航までに懊悩や変死

英国留学生渡航の地=いちき串木野市羽島

 前々回、前島密(ひそか)が薩摩藩の洋学校である開成所で教鞭(きょうべん)をとったことを紹介した。
 その開成所の教官の1人に石河確太郎(1825−95年)という人物がいる。大和国の医者の家に生まれ、長崎で蘭学を学んだ。そして、集成館事業を進める島津斉彬にスカウトされて来鹿。蘭書の翻訳に取り組み、反射炉建設や鹿児島紡績所の創設などにかかわった。その功績がもっと知られてよい藩外出身者である。
 元治元(1864)年6月、開成所が創設されると、石河はその教頭格となって生徒たちの指導にあたった。そして10月、大久保一蔵(のち利通)に対して上申書を提出している。
 石河は上申書で、開成所で教育した生徒たちを速やかにイギリスに留学させてこそ学業が成就し、「興国強兵」を実現できると述べている。
 従来、英国留学生の派遣は主に五代才助(のち友厚)の構想と奔走によるものとされていた。これに対して、石河は薩英戦争後の薩摩藩の親英路線と軍事強化方針に従い、開成所の充実、発展の立場から明確にイギリス留学を唱え、留学生の推薦や留学経費の算出まで含めた具体的な提案をした。藩当局の留学生派遣方針を決するきっかけになったのは石河の上申書だったといわれている(大久保利謙「幕末の薩摩藩立開成所に関する新史料」)。
さつま人国誌 上申書のなかで、石河は英国留学にふさわしい開成所生徒・句読師(くとうし)(助手)13人を成績ごとに4段階に分けて推薦している。そのうち、実際に6人が選ばれ、最終的には開成所から12人が選抜された。
 そのなかで、石河が「人柄至極たしかにこれあり、志も相立て勉励」しているとして、もっとも高く評価した2人のうちの1人が高見弥一である。高見は元土佐藩の郷士で薩摩藩に亡命してきた人物。石河が強く推挙したので、留学生に選ばれた。留学生の選抜基準が家柄や出身ではなく、人柄、志、学業成績だったことは当時の薩摩人の見識の高さを示している。
 もっとも、JR鹿児島中央駅の前に立つ「若き薩摩の群像」のなかに高見はいない(もう1人、長崎出身の堀孝之も)。薩摩藩の留学生派遣の趣旨からすれば、再考されるべきではないだろうか。
 留学生たちが渡航のために鹿児島をたち、串木野の羽島に向かったのは慶応元(1865)年1月20日だった。国禁に触れる密航なので、甑島出張という名目だった。羽島に着いた一行は商人藤崎龍助宅に宿泊した。
 英国商人グラバーの船が長崎から香港へと向かうので、便乗させてもらう手はずになっていた。だが、寄港予定日になっても船は来ない。積み荷などに手間取ったらしく、結局、留学生たちは2カ月も羽島で足止めを食った。
 それが留学生たちのいらだちや焦りを生んだ。密航を冒す不安に加えて、もともと当時の流行思潮である攘夷(じょうい)思想の持ち主もおり、外国人と交流することを嫌悪する者もいた。そんななか、留学生の1人、町田猛彦が変死してしまう事件も起きた。21歳。不安や懊悩(おうのう)に押しつぶされた末の悶死(もんし)だろう(犬塚孝明「薩摩藩英国留学生」)。
 異文化に立ち向かわなければならない留学生たちの言い尽くせぬ葛藤(かっとう)や苦難が察せられる。

(歴史作家・桐野作人) 

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