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'08/02/02 本紙掲載 
     
 

知られざる逸材・中原猶介(上)

■ 蘭学から集成館事業へ

中原猶介=慶応3(1867)年横浜にて

 幕末、薩摩藩では諸方面の逸材を輩出した。そのなかには、雄図半ばで逝ったり、戦死したりして忘れ去られた人物が少なくない。
 中原猶介(なおすけ)(1832−68年)もその1人である。中原は慶応4(1868)年8月、戊辰戦争のなかでも激戦となった北越戦争で戦傷死している。あくまで個人的な意見だが、中原がこのとき死ななければ、西郷隆盛、大久保利通に次ぐ逸材として、わが国近代史に名を残した人物だったのではないかと、ひそかに思っている。
 中原は鹿児島城下の上荒田に生まれた。下級城下士の結社・精忠組に加わっていることから、おそらく西郷や大久保と同じ御小姓与(おこしょうぐみ)という下級城下士の出だと思われる。西郷より5歳、大久保より2歳年下だった。
 中原は諱(いみな)を尚勇といい、5人兄妹の二男。少年のころから英才だったという逸話がある。中原は城下松原通りの平川壮之進という漢学者の塾に通った。
 同門だった奈良原繁が「猶介氏は1週に1回ずつ出席して講義を聞かれたが、実に威風堂々たるものであった。平川先生もこの日は容(かたち)を正して講義せられるのが常であった」と語っていたという。
さつま人国誌 薩摩藩では城下の方限(ほうぎり)ごとに郷中教育が行われたことはよく知られている。そのなかに赤穂義士伝や曾我兄弟物語などの輪読会があった。中原は平素は寡黙だったが、漢籍や和学の読誦(どくしょう)となると、流暢(りゅうちょう)かつ抑揚の上手な読み手だった。そのため、中原が輪読会に出席するとわかると、平常の数倍の出席者が集まったという逸話もある。
 その後、中原は漢学の限界を感じたのか、蘭学の習得を志す。もっとも、師にも原書にも恵まれず、まったくの独学独習だったが、嘉永2(1849)年、公用で長崎に出張したとき、公用のかたわら、蘭学研究に没頭した。
 中原の英才はほどなく藩主島津斉彬の目に留まった。薩摩藩は幕末、何度か留学生を欧米に送っており、慶応元(1865)年の英国留学生が有名だが、じつは斉彬時代から留学生派遣の計画があったことはあまり知られていない。斉彬の側近だった江夏(こうか)十郎の手記には次のように書かれていた。
 「このころ(安政年間はじめ)、順聖公(じゅんしょうこう)(斉彬)には欧洲に見学生派遣のお目論見(もくろみ)入らせられ、その生徒ご指名の中には中原猶介氏など相見え申し候」
 斉彬じきじきの指名だったのである。結局、対幕関係上、ヨーロッパ留学はかなわなかったが、中原は3年間の江戸留学を命じられる。
 中原が藩政に出仕したのは嘉永元(1848)年、17歳のとき。御庭方定助(おにわかたさだめたすけ)兼御製薬定掛助(ごせいやくさだめがかりたすけ)を拝命している。中原がその後、砲術家の道を進んだことから、弾薬と関連する御製薬方勤務のほうがより重要かもしれない。
 斉彬が藩主になると、翌嘉永5(1852)年から磯別邸(現・仙巌園)で集成館事業が開始される。その代表的な事業は反射炉建設だった。
 その掛員(かかりいん)は、用人の三原藤五郎、福崎助八はじめ、江夏、伊集院藤九郎、田原直助、宇宿(うしき)彦右衛門、市来四郎、そして中原だった(「薩藩海軍史」上)。中原は蘭学修業が買われたのだろう。
 高熱に耐えうる耐火レンガの製造に苦心するも、翌6年夏、反射炉はようやく完成した。中原らの労苦も報われた。

(歴史作家・桐野作人) 

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