
■ 近衛家、一橋慶喜が信頼
小松帯刀(たてわき)が京都政局の表舞台に躍り出たのは文久2(1862)年春である。
島津久光は亡兄・斉彬の遺志を継ぐとして、朝幕改革(京都手入れ)のために率兵上京を企てる。これには、薩摩藩の主だった家老も無謀な賭けであるとして反対し、奄美から召喚された西郷吉之助(のち隆盛)も、鹿児島育ちで京都や江戸に声望や人脈のない久光ではとても成功はおぼつかないと、一度は諌止(かんし)したほどである。
この久光の率兵上京は従来の幕末維新史研究ではそれほど評価されていなかったが、近年、研究者の間で俄然(がぜん)再評価されだした。たとえば、宮地正人氏は「明白な国家的反逆行為」ながら、それゆえ、「幕政史上、前代未聞の画期的大事件」だと評価しているほどである。
小松はこの久光の政治的な賭けの先兵として京都に一足先に乗り込んだ。小松がまず最初に会った要人は近衛忠熈(ただひろ)だった。忠熈は前(さきの)左大臣で、安政の大獄で謹慎処分を受けたままだった。
久光の率兵上京の目的のひとつは朝廷改革であり、人事面においては大老・井伊直弼(なおすけ)に協力的だった関白・九条尚忠(ひさただ)に代え、島津家と縁の深い忠熈を関白に就けることだった。小松はそのために奔走したのである。そのかいあって、忠熈はほどなく関白に任官する。
近衛家がいかに小松を信頼していたかがわかる史料がある。2年後の元治元(1864)年8月、内大臣の近衛忠房(忠熈嫡子)が久光、茂久(もちひさ)父子に書簡を出している。
「小松帯刀が帰国を申し出て、何とも当惑このうえない。国許(くにもと)に差しつかえがあるから、ぜひ一応帰国したいと申し出ている。とにかく致し方ないが、痛心している。何とぞ国許の用事を急ぎすませて、折り返し帰京させてほしい。昨今は帯刀が滞京していなくては、大いに差しつかえ、当惑すること限りない。そのことを厚くお含み下され、急ぎ引き戻していただきたい」
小松がいなければ、朝廷は当惑するばかりで、忠房も心が痛いというのだから、小松がいかに朝廷や近衛家に頼りにされていたかわかる。
小松を頼りにしていたのは朝廷、公家だけではなく、一橋慶喜もそうだった。慶喜はこの年の7月、長州藩兵と戦った禁門の変で、禁裏守衛総督として全軍の指揮をとった。小松も薩摩藩の代表として慶喜と緊密に連携し、適切な助言を行っている。先の忠房の書簡には次のような慶喜の意向も書かれていた。
「帯刀の帰国には困り果てている。近頃は一橋も帯刀を厚く依頼の様子で、あれこれ相談もあるそうなので、何とか帯刀が在京していてくれれば、全体に都合がよいのだが」
薩摩藩内においても事情は同じだった。禁門の変の前、在京していた西郷吉之助は国許の大久保一藏(のち利通)にあてて次のような書簡(6月2日付)を送っている。
「帯刀殿のことについては、今帰国されては、当方では頓(とん)と困り入る次第。しかし、そうもばかりいってはすまないのでしょうが、この機会は(小松の帰国を)見合わせていただきたく、たってお願いしたい」
西郷も、小松の存在が薩摩藩の周旋活動にとって不可欠であることをよく知っていた。
小松は京都政局におけるキーパーソンとして、諸方面に広く知られていたのである。
(歴史作家・桐野作人)
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