
■ 再考 小松の京都屋敷
この連載の第3回で小松帯刀(たてわき)の京都屋敷がどこにあるのか推定した。しかし、その後、いろいろ調べてみると、別の場所である可能性も出てきた。薩長同盟締結の場所だけにおろそかにできないので、あらためて所見を述べてみたい。
第3回では、二本松の薩摩藩邸[現・同志社大学今出川校舎、上京区烏丸(からすま)今出川上ル]から西に約300メートル離れた同大学新町校舎[上京区新町上立売(かみだちうり)下ル]にかつてあった「近衛殿」(旧桜御所)ではないかと推定した。
その根拠は2つあった。1つは大久保利通の三男利武の談話に「相国寺の先、烏丸通に在ったと聞いて居ります近衛家御花畑の別邸」とあったこと。
次に鹿児島出身の伝記作家・勝田孫弥が大久保利通の逸話をまとめた「甲東逸話」に「洛北鞍馬口に在る、近衛家の別荘御花畑」とあったこと。
これらから、烏丸通り近辺にある近衛邸で該当するのは「近衛殿」ではないかと推定したのである。
しかし、推定地の「近衛殿」が果たして「御花畑」と呼ばれたのかどうか確証がもてずにいた。ところが、最近になって「御花畑」と称する別の近衛家別邸を見つけたのである。
江戸時代を通じて、京都市中に近衛家の邸宅(本邸、別邸を合わせて)は5カ所あった。その造営時期と造営場所を年代順にあげると、
(1)「近衛殿」(旧桜御所)
室町時代
場所は前出
(2)今出川本邸
豊臣政権
禁裏北側(京都御苑内)
(3)近衛基煕(もとひろ)別邸(堀川屋敷)
元禄16(1703)年
堀川一条上ル
(4)近衛家煕(いえひろ)別邸(河原邸)
正徳3(1713)年
二条河原町
(5)近衛忠熈(ただひろ)別邸
幕末(嘉永年間以前)
左京区聖護院付近
このうち、「御花畑」と呼ばれていたのは、(3)の近衛基煕(1648−1722年)の別邸であることがわかった。
薩摩藩の財政改革の功労者である家老・調所広郷(ずしょひろさと)の功績を書き上げた史料「重豪(しげひで)公以来ノ財政整理ト調所笑左衛門ノ功績」に次のように記されている(「玉里島津家史料」十)。
「大客屋近衛様御衷(おうら)(裏)並(ならびに)堀川屋敷御花畠、(中略)都(すべ)テ御修繕」
大きな客屋である近衛様(屋敷の)裏と同じく堀川屋敷の御花畠を、調所がすべて修繕させた−と読める。近衛家の堀川屋敷(かその一部)が「御花畠」(=御花畑)と呼ばれていることがわかる。
基煕は関白太政大臣をつとめた人で、「基煕公記」という日記を残した。それによれば、元禄15(1702)年7月、基煕の孫・家久と島津家当主・綱貴の娘が縁組したのに伴い、基煕夫妻の住居問題を解決するため、島津家の助力を得て、堀川屋敷を購入し、翌16年9月に引っ越している。
そしてそれから100年以上たって調所が「御花畑」を修繕させているので、幕末も現存しており、島津家との縁もなお深かったはずである。
小松の京都屋敷は、この堀川屋敷「御花畑」にあったという推定もできるのではないだろうか。なお、利武談話や「甲東逸話」と場所が食い違う点は今後の課題としたい。
(歴史作家・桐野作人)
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