
■ 狆が好き、でも猫飼う
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| 江戸城の本丸跡(手前の芝生あたりが大奥跡)=東京都千代田区 |
天璋院篤姫の大奥生活の一コマとして、篤姫とペットの逸話を紹介したい。
大奥で篤姫に仕えた中臈(ちゅうろう)の大岡ませ子(旗本の娘)が明治になってから、篤姫のペットについて、とても面白い話を語っている(三田村鳶魚(えんぎょ)「御殿女中」)。
篤姫は狆(ちん)が好きだったそうだが、夫の将軍家定が犬嫌いだったため、内緒で猫を飼った。
初め飼った猫に「ミチ姫」という名前をつけたが、しばらくして死んでしまう。次に飼った猫には「サト姫」と名づけた。サト姫は16年生きたという。証言者のませ子はサト姫の世話係3人のうちの1人だった。
サト姫は将軍御台所(みだいどころ)のペットだけに、なかなかぜいたくな暮らしをしていた。篤姫が食事をするとき、サト姫の御膳(ごぜん)も一緒に出された。アワビの貝殻の形をした瀬戸物だった。大奥には精進日がある。そのときには生ものが出せないため、サト姫用のドジョウとカツオ節がわざわざ用意され、その費用だけで、年間25両もかかったという。
サト姫は紅絹のヒモの首輪に銀の鈴をつけていた。ヒモは1カ月ごとに取り換えた。日頃(ひごろ)は篤姫の着物のすそに寝そべっていたという。専用の布団もあった。管籠(くだかご)(磨いた竹を枠にした籠)に縮緬(ちりめん)の布団を敷いてもらって、そのなかで寝た。
サト姫は行儀もよかった。奧女中たちの居室である三の間に入ってくると、「お間違い、お間違い」といえば、おとなしく篤姫の部屋へ戻った。女中たちからお下がりの紙包みをもらうと、その場で食べないで、自分の御膳まで持って行ってから食べたという。
その代わり、交尾(さかり)の時期など大変で、外に出ていなくなってしまう。大奥の付属施設である御広敷の男の役人に頼んで捕まえてもらう。役人たちが「おサトさん、おサトさん」と呼んで捜すのを見て、ませ子たちは「それではいても逃げてしまう」と笑いころげたという。
大奥のある本丸御殿が火災で焼けたときには、サト姫は管籠に入れられて一緒に避難したほど、大事にされた。
篤姫にとって、サト姫との付き合いは、わずか1年半しかなかった夫家定との生活よりもはるかに長かった。夫亡きあと、幕府の倒壊を目の当たりにするなかで、サト姫は篤姫の孤独や不安を癒やしてくれる存在だったのではないだろうか。
さて、篤姫はもともと狆が好きだったというからには、鹿児島時代に狆を見たか、飼っていた可能性があるのではないか。
その傍証はある。薩摩産の狆がいる。篤姫の養父である島津斉彬は水戸の徳川斉昭に狆を贈っている(「島津斉彬文書」上巻)。
弘化2(1845)年11月、斉彬が斉昭に宛(あ)てた書簡には「狆のことですが、時々病気がちとのこと。どうやら持病のようです。ちょうどこちらに1匹在り合わせがありますから、今日差し出しましょう。お心にかなえば、進上致します。病気をもっておらず、ほかの狆とも仲よくやれる狆です」
ほどなく斉昭から礼状が来た。
「御国産(おくに)の黒狆、とくにご秘蔵のものを分けていただき、感謝にたえません。お知らせのとおり、よく馴(な)れていて、私の膝(ひざ)もとを離れません。手入れもよく、毛並みも格別です」
斉昭が「御国産」と述べているので、薩摩では狆を独自に飼育していたのだろう。篤姫もそうした狆を飼っていたのかもしれない。
(歴史作家・桐野作人)
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