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'08/04/19 本紙掲載 
     
 

島津ゆかりの大円寺

■ 篤姫 斉彬供養塔を建立

丸十紋のある大円寺本堂=東京都杉並区

 東京都杉並区永福町に大円寺(だいえんじ、山号・泉谷山)という曹洞宗のお寺がある。この寺は江戸時代、島津家の江戸における菩提(ぼだい)寺の役割を果たしていた。
 江戸開幕のころ、大円寺は徳川家ゆかりの寺として赤坂溜池(ためいけ)に建立されたが、寛永18(1641)年の大火により、芝・伊皿子(いさらご)町(現・港区三田3丁目)に移転した。ちょうど、薩摩藩の芝本邸と高輪屋敷の中間に立地していた。また鹿児島にある島津家の菩提寺・福昌寺と同じ宗派だった。
 延宝元(1673)年2月、藩主島津光久の世子綱久が42歳で他界したとき、大円寺で葬儀を執り行い、荼毘(だび)に付した。それ以来、大円寺は島津家の菩提寺になり、代々の位牌(いはい)堂も設けられた。
 安政5(1858)年7月、島津斉彬は鹿児島で急病を発して他界する。翌6年6月、天璋院篤姫は斉彬の一周忌を前に、島津家に供養の石塔を建立してほしいと申し入れた。
 篤姫は入輿(じゅよ)以来、養父の斉彬とは生き別れになっていただけに、その死を知って悲嘆もひとしおだったのではないか。養父の菩提を弔うために、せめて大円寺に供養塔を建てようと発願したのだろう。
 ただ、これまで大円寺には歴代藩主とその夫人の位牌を安置するだけで、石塔を建てる先例はなかった。篤姫の申し入れを受けた島津家の家老・川上筑後は最初困惑したようだが、「天璋院君のお厚きご内沙汰」と「孝思(こうし)追慕の情」により、「此度(こたび)は別段のお訳合(わけあい)」(格別の理由による特例)で建立することにしたと述べている(「旧記雑録追録」八)。
さつま人国誌  石塔の下には石櫃(せきひつ)が埋められた。そのなかには、生前斉彬が愛玩していた遺品のほか、篤姫自ら写経した梵経(ぼんきょう)も納められた。
 石塔が完成し、供養が無事終ったことを島津家が篤姫に伝えると、満足しているという篤姫の言葉が老女幾島から伝えられた。
 なお、同年9月、篤姫の養祖父にあたる隠居の島津斉興(なりおき)が他界すると、篤姫は同様に斉興の供養塔も建立させている。
 明治になると、薩摩藩はなくなり、島津家も神道に宗旨替えした。大檀越(だんおつ)を失った大円寺は同41(1908)年、現在地に移転して今日に至っている。
 篤姫が建立させた斉彬の供養塔を探しに、大円寺を訪れたことがある。山門を潜(くぐ)り抜けたところに、大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が鎮座していた。刻文に「大檀越薩隅日三州太守」云々(うんぬん)とあったから、「これだ」と勢い込んだが、よく読んでみると違った。
 建立は文政9(1826)年。斉興夫人で斉彬の生母・賢章院(けんしょういん、文政7年没)と斉興の妹・智涼院(文政2年、2歳で夭逝=ようせい)の供養塔だった。島津家は大円寺に供養塔を建てなかったというが、篤姫以前にも建てた例があることがわかった。
 結局、めあての供養塔は見つけられなかった。ご住職に話をうかがうと、島津家が位牌を含めてすべて整理し、鹿児島に持ち帰ったのではないかとのことだった。
 それでも、境内には薩摩や島津家を偲(しの)ばせるものが数多く残っている。戊辰戦争での薩摩藩の戦死者を祀(まつ)った「戊辰薩藩戦死者墓」をはじめ、横山安武=森有礼の兄、明治3(1870)年屠腹(とふく)=や歌人・八田知紀などの墓もあった。
 大円寺は東京にある薩摩ゆかりの寺として、もっと知られてよいのではないか。

(歴史作家・桐野作人) 

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