
■ 苛烈な処分と名誉回復
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| 大黒寺にある「伏見寺田屋殉難九烈士之墓」=京都市伏見区 |
文久2(1862)年4月23日、伏見の寺田屋で薩摩藩士たちが凄惨(せいさん)な同志討ちをくり広げた。世にいう寺田屋事件である。
そのいきさつはよく知られているので、ここでは事件の後日談を述べてみたい。
事件は国父(藩主の父の意)の島津久光の上意により引き起こされた。上意討ちされた側では、有馬新七、柴山愛次郎、田中謙助、西田直五郎、橋口伝蔵、弟子丸龍助の6名がその場で闘死し、重傷を負った森山新五左衛門と橋口壮助の2人は蘇生(そせい)したが、伏見の藩邸で自刃を命じられた。
もう1人、山本四郎(初名・神田直助)も有馬らの同志だったが、折から京都藩邸で病床にあった。帰国命令が出たが、それに服せず、4日後の27日、監視の使卒数人と格闘したのち自害した。
その他、寺田屋の2階に集結していた藩士22名は鎮撫(ちんぶ)方の奈良原繁らの説諭に応じ、帰国命令に服した。
この事件を久光側近の大久保正助(利通)らに報じた奈良原喜左衛門、海江田武次の書簡は「同志合戦」と述べている。斬(き)り合った双方がほとんど精忠組の同志たちだったからである。
一方、久光は有馬らを「暴徒」と呼んだ。久光には久光の名分があった。久光は率兵上京に際して諭書(ゆしょ)を家中に示して、他藩士や浪人との交際を禁じ、それに従わない者は「遠慮なく罪科を申し付ける」と、あらかじめ布告していた。久光はこの諭書に従って、有馬らを断罪したのである。
その後の処分は苛烈(かれつ)をきわめた。たとえば、有馬は士籍を除かれ、遺体も「死体埋捨」の処分となった(「有馬新七先生伝記及遺稿」)。ほかの8名も同様だろう。
本来、上方詰めの藩士が亡くなった場合、薩摩藩の菩提(ぼだい)寺である東福寺塔頭(たっちゅう)の即宗院(そくしゅういん)に葬られるが、有馬ら九士は「暴徒」ゆえ、葬られなかった。またその遺族は庶人(百姓・町人)に身分を落とされたうえに、親類預かりの処分を受けた。
2年後の元治元(1864)年4月、藩当局の大赦によって、有馬の遺族は士籍を復せられ、一子幹太郎に家名の相続が許された。さらに9月には有馬の墓石建立も許された。
事件直後、九士の遺骸(いがい)は寺田屋近くの大黒寺に葬られた。沖永良部島から帰ってきた西郷は有馬ら九士の墓標が朽ち果てているのを見て、同年10月、私財を投じて墓石を建てた。
明治になってから、九士の名誉回復が徐々に進んだ。政府は維新殉難者への贈位と靖国神社への合祀(ごうし)を推し進めた。有馬ら九士はみな、同22年11月に合祀され、同24年12月に従四位を贈位されている。
明治27(1894)年には33回忌が執り行われ、寺田屋前庭に「薩藩九烈士遺跡表」と題する石碑も建てられた。
こうした名誉回復の手続きが久光の死去(同20年12月)の直後から始まっていることから、やはり久光存命中には名誉回復しようにもできなかったのではないかともいわれている。
時系列ではそのとおりで、なかなか興味深い見解だが、偶然の一致だと思う。同24年12月の贈位は1度に155人が対象になっており、九士だけではないからである(「贈位諸賢伝」上)。
いずれにせよ、寺田屋事件は幕末薩摩藩の関係者にとって、触れたくない暗部であり、禁忌だったといえよう。
(歴史作家・桐野作人)
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