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'08/05/03 本紙掲載 
     
 

寺田屋事件その後(下)

■ 細島の惨劇、久光の密命

細島港外にある三士の墓=宮崎県日向市

 寺田屋での格闘が終わったのち、2階に集結していた薩摩藩士22名は上意に応じて投降したことは前回述べた。
 そのなかには、西郷信吾(のち従道)、大山弥助(のち巌)、篠原冬一郎(のち国幹)、伊集院直右衛門(のち兼寛)、永山万斎(のち弥一郎)、三島弥兵衛(のち通庸)などが含まれていた。ほかに美玉三平(本名・高橋祐次郎)は降伏を潔しとせずに藩邸から脱走している(のち生野の挙兵で戦死)。
 じつは、寺田屋には他藩の脱藩士や公家侍も詰めていた。田中河内介(かわちのすけ)、磋磨介(さまのすけ)父子や真木和泉守、吉村虎太郎はじめ、久留米、秋月、土佐、佐土原の諸藩士など20余名である。彼らも薩摩藩の京都藩邸(錦小路屋敷)に連行され、軟禁状態に置かれた。
 その後、諸藩士の多くは釈放されたが、田中父子とその甥(おい)・千葉郁太郎(但馬多気[たき]郡栗山村出身)、その義弟・中村主計(かずえ)(肥前島原出身)と海賀宮門(かいが・みやと)(秋月藩士)の5人は行き所がなく薩摩に潜伏することを希望したので、鹿児島に護送されることになった。
 このうち、田中は但馬の医者の家に生まれ、公家の中山忠能(ただやす)の家士となり、同家の用人として国事周旋にあたった。前年には中山家を辞して尊王攘夷(じょうい)運動に奔走していた。
 寺田屋に集結した面々は京都市中に放火したうえに、関白・九条尚忠(ひさただ)と京都所司代・酒井忠義(ただあき)を襲撃する計画だった。その首謀者は田中河内介だと目されていた。
さつま人国誌  それだけに、薩摩藩側は田中を危険人物視し、ひそかに抹殺の命が下っていた。大坂から鹿児島に向かう途中、5月1日、播磨灘のあたりで田中父子は警固の者によって斬(き)られ、海中に投じられた。遺骸(いがい)は翌日、讃岐の小豆島に漂着したという。
 斬られるとき、河内介はうすうす予感していたらしく、辞世を詠むと、「疾(と)く殺せ」と胸をはだけて両手をさし上げた。辞世は「ながらへてかわらぬ月を見るよりも 死して掃(はら)はん世々の浮雲」(「田中河内介伝」)。
 残りの海賀・千葉・中村の3人は別の船に乗っていて、田中父子の最期を知らなかった。しかし、日向細島(現・日向市)の港に着いたとき、彼らも同様の運命が待っていた。
 5月7日、3人は大木に縛りつけられたまま殺害されたという。その場所は細島港外の古島という小さな島である。現在、「幕末勤王家海賀宮門外二士の墓」と題して、墓標が3基立っている。
 さて、彼ら5人の殺害を命じたのは誰なのか、これまではっきりしていなかった。近年、尚古集成館で島津久光が一子の藩主茂久(もちひさ)に宛(あ)てた書簡が発見され、芳即正(かんばし・のりまさ)氏が紹介している(「玉里島津家史料補遺 南部弥八郎報告書二」など)。
 芳氏の指摘によれば、そのなかの1通に「浪人同列、船より差し下し、船中にて如何様(いかよう)にも取り計らうべく申し付け遣わし候」という一節がある。
 鹿児島に向かう船中で、彼らをどのように処分してもよいという密命を久光が下していたことが明らかになった。また、自藩士とくらべて、浪人の扱いが苛酷である。
 3人の墓がある古島(こしま)は現在、地元の人々から「黒田家臣」と呼ばれているそうである。それは海賀が筑前藩黒田家の支藩・秋月藩黒田家の家臣だったからだろう。
 この言葉からも、3人の墓が地元の人々によって大切に守られていることがわかる。鹿児島の人々ももっと知っていてよい事績ではないだろうか。

(歴史作家・桐野作人) 

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