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'08/05/10 本紙掲載 
     
 

大久保兄弟と野球草創期

■ 米国初プレーの日本人か

フィラルデフィアでの大久保兄弟。右が利和、左が伸顕(大久保利泰氏提供)

 日ごろ仕事の関係で神田神保町、一ツ橋(東京都千代田区)によく行く。その界隈(かいわい)に学士会館があるが、最近、その前庭に大きな手で野球のボールをつかんだ形のブロンズ像が立った。
 通りかかるたびに気になっていたので、碑文を見ると、この場所は明治時代の初期、東京帝国大学の前身だった開成学校(第一大学区第一番中学)があったところ。
 その教師だったホーレス・ウィルソンというアメリカ人がここで日本人の生徒たちに初めて野球を教えた場所で、明治5(1872)年のことだという。これが「日本の野球の始まり」だという。野球はここから全国に広まっていったのである。
 ウィルソンは野球伝来の功労者として、2003年、野球殿堂入りしている。このブロンズ像はそれを記念して、財団法人野球体育博物館が建立したものだった。
 ところで、大久保利通の曾孫・利泰(としひろ)氏から以前、大久保利通の長男利和(としなか)と二男牧野伸顕(のぶあき)もわが国の野球創業に関(かか)わっているという話をうかがったことがあった。ブロンズ像の逸話とどのように関わるのか。
 右のエピソードのもととなった史料は明治中期に創刊された新聞「日本」の記事だった。明治29(1896)年7月22日付に「野球の来歴」と題した「好球生」という筆名の寄稿がある。筆者は教師ウィルソンの教え子で、野球の手ほどきも受けていたようだ。その頃(ころ)の様子を次のように書いている。
さつま人国誌  「各学生も氏(ウィルソン)に就(つい)て大分学びたり。此頃(明治6年)より何時となく余輩の球戯も上達し、打球は中空を掠(かす)めて運動場の遠隔より構外へ出る程の勢を示せしが、終(つい)には本式にベースを置き、組を分ちて野球の技を初むるに至れり」
 注目すべきは、創業期のメンバー19名が書かれていることである。そのなかに五代竜作、大久保利和、牧野伸顕が含まれている。五代竜作は五代友厚の子。
 大久保兄弟もわが国野球の黎明(れいめい)期にすでに野球に親しんでいたのだ。しかも、それだけではない。牧野伸顕(のち内大臣、伯爵)の回顧談が興味深い。
 牧野は11歳で2歳年上の兄利和とともに、明治4(1871)年11月、岩倉使節団に同行して渡米した。東京日日新聞の昭和11(1936)年10月12日付の記事で、牧野はアメリカでの生活を次のように語っている。
 「フイラデルフイヤ(フィラデルフィア)の中学に四年ゐた。寄宿舎にゐたのでベースボールといふものもそこで始めて覚えたわけだ。(中略)そして日本に帰つたのが明治七年で開成学校に籍を置くことになつた。(中略)そこでベースボールをやらうと言ひ出したのが、数学の教師だつたウイルソン先生だつた」
 牧野はただアメリカの中学に在籍していたというだけで野球にかり出されたそうで、小さかったから、守備はファーストかセカンドをやっていたという。そして「非常に下手だつたことを自白する」と語っている。
 牧野は11歳で渡米し、明治5年頃にはすでに野球をしていたようである。もしかしたら開成学校でウィルソンから手ほどきされた日本人よりも、大久保兄弟が早かったかもしれない。日本人選手が大リーグでプレーしている今日、大久保兄弟こそは本場アメリカで野球をした最初の日本人だったかもしれないのである。

(歴史作家・桐野作人) 

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