< 寄 稿 >

さつま人国誌

 鹿児島県出水市出身の作家・桐野作人氏が鹿児島ゆかりの歴史上の人物に関わる逸話を掲載します。

〈445〉島津忠昌の自害 2017.02.27
〈444〉長州方に属した薩摩脱藩士 2017.02.20
〈443〉大魯和尚の来薩 2017.02.06
〈442〉一向宗と島津氏(下) 2017.01.30

No.442
一向宗と島津氏(下)
■禁制から「かくれ念仏」へ
花尾のかくれ念仏洞=鹿児島市花尾町
 島津氏領内で一向宗禁制が始まったのはいつからで、どのような理由によるものかを確定するのは難しい。
 島津氏が一向宗に脅威を覚えたとすれば、その宗旨に基づく団結力が一揆などの軍事力に転化することではなかったか。
 たとえば、文禄三(一五九四)年六月、日向佐土原領で、当主・島津豊久が折から朝鮮出兵中、大光寺門前で男女(人数不明)が起請文きしょうもんを呈し、永代に一向宗にならないことを誓っている(「大光寺文書」九四)。これなどは氷山の一角で、相当数の門徒衆が潜在していたと思われる。
 また慶長五(一六〇〇)年二月、庄内の乱で、島津忠恒(のち家久)が伊集院忠真ただざね方の山田城(都城市山田町)を攻めたとき、近くの稲荷社を忠恒勢が破壊してしまったらしい。父義弘は「稲荷社は当家にとって大事な信仰の対象なのに言葉もない。さらに忠恒勢のなかに一向宗の門徒衆が含まれており、彼らが稲荷社を破壊したのではないか。事実とすれば、けしからぬことだ」と怒っている(「旧記雑録後編三」一〇三一号)。
 このように、島津勢のなかに一向宗門徒が紛れ込み、しかも、重大な破壊活動をしたことを義弘が問題視しているのである。
 結局、島津氏が一向宗禁制を本格化したのは徳川幕府がキリシタンに対する禁教令を発したのと深く結びついていたという。寛永十二(一六三五)年、薩摩藩ではキリシタン取り締まりとともに、独自に宗門しゅうもん手札てふだ改めにより一向宗門徒を取り締まっている(桃園恵真「真宗禁制と伊集院幸侃」「島津家歴代制度」巻六十一)。
 このように、薩摩藩領において全面的な禁制が敷かれたものの、門徒衆の信仰はひそかに幕末までつづいた。いわゆる「かくれ念仏」である。門徒衆は村などを単位として、「講」を組織し、講頭こうがしらをリーダーに肝煎きもいり、世話人、組頭から一般門徒まで縦の組織系統ができていたという。門徒は武士、百姓、町人を問わず各層で構成されていた(芳即正「かくれ念仏と講組織」)。彼らはひそかに山中の洞窟や掘り抜いた洞穴(ガマ)で「南無阿弥陀仏」を唱えつづけたのである。
 また、京都の本願寺(とくに西本願寺)とつながり、本願寺から阿弥陀如来の本尊、親鸞や蓮如を描いた御絵像ごえぞう、南無阿弥陀仏の文字を書いた御名号ごみょうごうなどを下付されると、冥加みょうが金を上納するという関係もあった。
 藩政時代を通じて、藩当局はたびたび手札改めを実施して多数の門徒衆を摘発し、弾圧を加え改宗を迫ったが、それでも信仰は脈々と生きつづけた。
 薩摩国でも門徒衆が多かった出水郡を例にとると、宝暦四(一七五四)年に手札改めをしたところ、じつに一七〇〇人以上の門徒が自首して転宗を誓ったが、多くは偽装だったという。
 また出水の門徒衆はひそかに国境を越えて一向宗に寛容な肥後水俣に行き、真宗寺院の西念寺や源光寺に抜け参りをしたことも知られる。郷の三役たちは抜け参りする門徒を監視、摘発するために隠横目かくしよこめを派遣した。彼らの報告によると、それらの寺には出水の門徒衆のために「薩摩部屋」が設けられており、そこで僧侶の説教を聴き、祈りをささげたという。(「税所文書」「出水郷土誌」)。
 禁制から三百年近くたち、ようやく信仰の自由が認められたのは明治九(一八七六)年のことだった。そして次々と真宗寺院が建立されていくのである。
(歴史作家・桐野作人) 

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