< 寄 稿 >

さつま人国誌

 鹿児島県出水市出身の作家・桐野作人氏が鹿児島ゆかりの歴史上の人物に関わる逸話を掲載します。

〈445〉島津忠昌の自害 2017.02.27
〈444〉長州方に属した薩摩脱藩士 2017.02.20
〈443〉大魯和尚の来薩 2017.02.06
〈442〉一向宗と島津氏(下) 2017.01.30

No.443
大魯和尚の来薩
■一向宗禁制下の布教活動
大魯和尚の墓=日置市吹上町永吉・光専寺
 「かくれ念仏」の取材で、花尾(鹿児島市花尾町)のかくれ念仏洞の近く(東俣町)に「西山せいざん宗知師之墓」という墓石を見つけて興味をもった。一向宗禁制下の薩摩で阿弥陀の教えを説いたこの僧侶はどんな人物なのか。
 彼は泉州堺の慈光寺住職で、本名円髄、西山と号し、大魯だいろ和尚と呼ばれた。一説には楠木正成の末裔まつえいという。生没年は明和五(一七六八)年生まれ、天保七(一八三六)年没、享年六十九歳である。
 西本願寺の学林(学校)の講師八人衆の一人で、ひときわ学識に優れた僧侶だったという。同派の教学上の権威は学林の学頭で能化のうげと呼ばれた。当時、智洞が第七代能化だったが、大魯和尚は智洞門下の四天王の一人に数えられていた。
 同派では宝暦十二(一七六二)年から宗派内の対立、論争がつづいており、文化三(一八〇六)年には「三業さんごう惑乱わくらん」と呼ばれる本願寺史上最大の法論へと発展した。それはしん〕/rp>(口に念仏を唱える、心に信心をいだく、合掌する姿)の三業をめぐって、同派の本質的な信仰のあり方を問うもので、激しい法論がくり広げられた。
 本山もこれを制御しきれず、ついに幕府の介入を求めたため、寺社奉行は能化派を異端として処罰するに至った(桃園恵真「新訂さつまのかくれ念仏」「増補改訂 本願寺史二」)。
 それに伴い、能化派に属した大魯和尚も脱衣だつえ(僧衣を脱ぐこと)のうえ重追放の処罰を受けた。もっとも、牢屋ろうやが火災に遭ったとき、大魯和尚は一時釈放されたのちに帰牢したので、罪一等を減ぜられて軽追放となった(「増補改訂 本願寺史二」第五章)。
 身の置き所がなくなった大魯和尚は山陰から肥後に移った。学友の知雄和尚が快く受け入れてくれ、藩主の細川斉慈なりしげからも庇護ひごされた。しかし、さらに幕吏が迫ったため、島原から天草へと渡り歩き、その途次、門徒である知覧の折田権左衛門と知り合う。
 権左衛門の招きにより鹿児島城下高麗町の本田某宅に居を構えた。高麗町一帯でははた織りが盛んで、女性たちが夜一カ所に集まって木綿を紡ぐという女人講があったので、だれにも怪しまれなかったという。そこへ大魯和尚を迎えて阿弥陀如来像を拝しながら、門徒たちは和尚の説法を熱心に聴いた。門徒たちは御礼に織った布を寄進した。和尚はそれを本願寺に献納したという。この講は細布講さいふこうと呼ばれた。
 しかし、門徒の数が増えてくると、藩の宗門改めが厳しくなったため、大魯和尚はこの講を権左衛門の息子正源に譲って鹿児島を去り、永吉の宮下造右衛門宅に身を寄せた。この地では「煙草たばこ講」を組織した。
 大魯和尚の傍らには、薩摩出身の武士の出ながら門弟となった誓鎧師せいがいしが常にあり、和尚を助けていた。二人は造右衛門宅の粗末な馬小屋に、隠れるようにして寝泊まりしたという。
 永吉の人々は大魯和尚を「岡様」と呼び、伊作、阿多、勝目方面の人々は「御隠居様」と親しみを込めて呼んだ。そのため、南薩一帯に門徒が多数増えたという(「郷土誌 ふるさと 坊野の昔」)。
 しかし、不衛生な環境にあったため、大魯和尚は次第に身体が衰弱し、ついに天保七(一八三六)年十月、洞窟の中で苦難と波乱の生涯を閉じた。冒頭の墓石には、その死に「無数の信徒別れを惜しみて号泣せざるはなかりき」と刻んである。
(歴史作家・桐野作人) 

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