< 寄 稿 >

さつま人国誌

 鹿児島県出水市出身の作家・桐野作人氏が鹿児島ゆかりの歴史上の人物に関わる逸話を掲載します。

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〈445〉島津忠昌の自害 2017.02.27

No.445
島津忠昌の自害
■有力庶家との確執の末に
島津忠昌の墓=鹿児島市池ノ上町・福昌寺跡墓地
 鎌倉時代から幕末までの島津氏の長い歴史のなかで、唯一自害した当主がいる。十一代の島津忠昌(一四六三~一五〇八年)である。
 忠昌は当主(守護)としての出発点から不幸、不運の影が刻まれていたように思える。
 文明六(一四七四)年四月、父立久たつひさ(十代守護)が他界した。立久の夫人は叔父の薩州家用久もちひさの娘だったが、子がなかったので用久の子国久を養子にしていた。ところが、その後、側室梶原氏が忠昌を生んだ。立久は用久、国久に遠慮したのか、忠昌を市来の龍雲寺に入れ、源鑑げんかんと名乗らせた。
 そして立久が病床につくと、今度は国久が遠慮した。源鑑を還俗げんぞくさせて立久の後嗣とした。これが忠昌で、まだ十二歳の少年だった(「鹿児島県史一」第四編守護時代)。
 幼主の忠昌は守護就任の直後から、帖佐の豊州家季久すえひさ、加世田の薩州家国久、田布施の相州家友久、日向櫛間の伊作家久逸ひさとしらを次々と歴訪して、犬追物いぬおうものを通じながら親交を深めるのに心を砕いた(上同書)。彼らは「一家中」とか「御一家」と呼ばれる有力庶家である。
 しかし、忠昌の期待は裏切られる。これら「一家中」による争乱が幾度か起こる。とくに文明八・九年と文明十六・十七年の争乱は島津氏領国内だけではなく、肥後相良氏や日向伊東氏も介入するほど大規模だった。
 忠昌は辛うじて争乱を平定し、一時的な和平を実現すると、反守護方も含めた「一家中」と「契状けいじょう」を結んでいる(「旧記雑録前編二」一五一六・一五一七・一五三六号)。契状とは、将来の行為を約束するために結ぶ契約のことである。
 新名一仁氏によれば、こうした大きな争乱とその後の「契状」取り交わしには二つの背景、要因が考えられるという(「室町期島津氏領国の政治構造」第三部第三章)。
 ひとつは、同三年から八年(一四七一~七六年)にかけて度々桜島の大噴火があり、それによる政情不安や治安悪化が大きな問題になっているとともに、被害地域が紛争地域と重なっているという。
 次に、有力庶家で構成される「一家中」は、忠昌を「御輿みこし」として担ぎながら、守護とその「家中」の勢力をぎ、守護家の政策決定において、自分たちの主導権を確保しようとする狙いがあったという。
 ところで、忠昌は真面目で、学問への関心も高かった。文明十(一四七八)年には明国から帰国した禅僧・桂庵玄樹を招き、島陰寺(桂樹院)を建立した。玄樹は伊地知重貞とともに朱子学の創始者・朱熹しゅきの「大学章句」を板行している。玄樹の学派は薩南学派と呼ばれ、近世朱子学の基礎を築いたといわれる。
 忠昌はもともと病弱だったが、大規模な争乱のために心身共に疲労を蓄積させた。それでも、有力庶家「一家中」による守護権力の弱体化の動きに抗して、軍事力による守護権力の維持を図ろうとした。
 永正三(一五〇六)年、大隅の肝付兼久を討伐するため出陣したが、志布志の新納忠続ただつぐが肝付方に味方したため失敗に終わる。失意の忠昌は精神に異常を来した。「衆眼しゅうがんを恥じ、心憤胸をふさぎ、朦気もうきれず」という状態になった(「旧記雑録前編二」一八一二号)。
 二年後の同五年二月十五日深夜、満月の下、忠昌は清水城中で自害して果てた。享年四十六歳。その衝撃的な最期は、島津惣領そうりょう家の衰退と南九州の戦国時代の到来を告げるものだった。
(歴史作家・桐野作人) 

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