< 寄 稿 >

さつま人国誌

 鹿児島県出水市出身の作家・桐野作人氏が鹿児島ゆかりの歴史上の人物に関わる逸話を掲載します。

〈448〉安積疎水事業と大久保利通 2017.03.27
〈447〉真木和泉の薩摩入国(下) 2017.03.20
〈446〉真木和泉の薩摩入国(上) 2017.03.06
〈445〉島津忠昌の自害 2017.02.27

No.446
真木和泉の薩摩入国(上)
■久光に討幕計画を訴える
真木和泉が住んだ山梔窩=久留米市水天宮
 幕末期にはいわゆる勤王の志士、尊王攘夷じょうい派の志士と呼ばれる人々を輩出したが、その巨頭の一人が真木まき和泉いずみ保臣やすおみ、一八一三~六四年)である。
 真木は筑後国久留米藩にある水天宮すいてんぐうの神職の家に生まれ、中小姓ちゅうこしょう格という下級藩士でもあった。神職としては大宮司と従五位下・和泉守の官位を有していたので、和泉を通称とした。
 若き真木は藩主・有馬頼永の下で藩政刷新に取り組んだが、頼永の死後は逆風となった。嘉永五(一八五二)年、真木ら改革派は弾圧された。真木も蟄居ちっきょを命じられ、神職を取り上げられた。それでも、真木はくじけず、水天宮の一角に山梔窩くちなしのやという庵を建て、周辺の陪臣、村役人たちを門弟として学問を教え、時勢を熱く説いたという(山口宗之「真木和泉」)。
 蟄居はじつに十一年の長きにわたったが、文久二(一八六二)年、真木は藩庁の許しを得ないで脱出を企てる。それは、島津久光の率兵上京が大きなきっかけだった。
 すでに真木は前年薩摩を訪れた同志・平野国臣(筑前脱藩士)から薩摩藩内の情勢を聞き、二月一日には精忠組激派の柴山愛次郎と橋口壮助の訪問を受け、四日には京都から帰国途中の大久保一蔵とも会見している。もっとも、大久保は真木に自重を促している。
 真木はいよいよ脱出亡命を決意した。上京する久光に朝廷を助けての討幕を訴えようと南行して薩摩を目指すのである。
 久留米藩は真木周辺の動静が不穏なことを知り、捕吏に水天宮を警戒させた。二月十六日、真木一行はやりや鉄砲で武装し、白昼堂々、水天宮を出た。そして、松橋から船に乗り、天草を経て、二十一日、ようやく阿久根に着岸した。
 しかし、港の役人は真木一行が往来手形を所持していなかったので入国を拒絶した。真木は小松帯刀や大久保一蔵と内々の談合があると伝え、二人への書簡を託すと、ようやく四日後に入国を許された(宇高浩「真木和泉守」)。
 鹿児島城下に入った真木一行は二十八日、大久保と密談に及んだ。真木は同志の田中河内介が勅書を持参するなどの三カ条を述べて、久光に大義のためにたつことを求めた。しかし、大久保は三カ条に賛意を示さなかった。真木は日記に「(大久保は)唯々いいと去る」と書いた(上同書)。
 翌二十九日、真木は久光に上書を提出した。その内容は驚くべき過激な論だった(「玉里島津家史料一」一三八号)。
 それは具体的な討幕計画で、たとえば、三〇〇人で京都御所を占拠し、ほかの三〇〇人で二条城を攻撃する。そのうちの五〇人は京都所司代の酒井忠義ただあきを襲撃する。そして孝明天皇には比叡山に鳳輦ほうれんを移してもらう。そのうえで、「勅諚ちょくじょうにて関東の賊(幕府)を打ち取り申すべし」という趣旨だった。久光主従は勅命により朝廷と幕政の改革を進めることを目的としていたから、到底真木の討幕論を受け容れられるはずがない。
 当時、真木の令名は西国から上方で広く知られていた。たとえば、出羽の尊攘派浪士で有名な清河八郎も真木を訪れて、「その体五十位の総髪、人物至ってよろしく、一見して九州第一の品格顕はる、すこぶる威容ありき」と述べているほどである(清河「潜中始末」)。
 薩摩藩は久光の上京が迫るなか、この異端の大物の処遇に手を焼いていた。
(歴史作家・桐野作人) 

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