< 寄 稿 >

さつま人国誌

 鹿児島県出水市出身の作家・桐野作人氏が鹿児島ゆかりの歴史上の人物に関わる逸話を掲載します。

〈440〉加徳丸襲撃事件 2017.01.16
〈439〉朝河貫一と「入来文書」 2017.01.09
〈438〉丸田南里と勝手世運動(下) 2016.12.26

No.439
朝河貫一と「入来文書」
■中世武家像 世界に紹介
朝河貫一(1940年当時)=矢吹晋「朝河貫一とその時代」より
 昨秋、旧入来町(現・薩摩川内市)の川薩清修館高校で、「入来の歴史と人物」と題して話をする機会があった。
 一番伝えたかったのは、鎌倉時代初め、関東からやってきて地元に根づいた入来院氏の歴史を世界に紹介した朝河あさかわ貫一かんいち(一八七三~一九四八年)という学者のことだった。
 彼の学究生活と「入来文書」との出会いを、阿部善雄「最後の日本人-朝河貫一の生涯-」や矢吹晋「朝河貫一とその時代」などから紹介したい。
 朝河貫一は旧二本松藩士の家に生まれた。父正澄は戊辰戦争の悲劇として語り継がれる二本松少年隊の生き残りである。
 幼少から秀才の誉れ高い貫一少年は「神童」とか「朝河天神」と呼ばれた。福島県郡山市の安積あさか中学校に入学した貫一は首席を通し、とくに英語への探究心がひときわ強かった。
 こんな逸話がある。貫一は英和辞典を一日二頁ずつ暗記した。暗記した部分は食べるか破り捨てていき、最後は表紙だけが残ったので、校庭の片隅の桜の根元に埋めた。同校ではその桜の木を「朝河桜」と呼ぶようになったという。
 朝河は明治二十九(一八九六)年渡米を果たし、授業料と寄宿寮費を免除される貸与生として、東海岸のダートマス大学に入学した。ここも首席で卒業、さらにエール大学の大学院歴史学科に入った。同級生たちは朝河の謹厳な学究態度を見て「サムライ」とあだ名した。そして「六四五年の改革(大化の改新)の研究」で学位を得た。
 「入来文書」との運命的な出会いは、大正六(一九一七)年、2回目の帰国のときだった。このとき、日本の中世史研究のため、東京大学史料編纂所に留学する。そこで朝河は「薩藩旧記」(原題「旧記雑録」)に触れるうち、「入来文書」の存在を知って、最良の中世武家文書だと直感した。
 同八年六月、九州調査旅行の一環として来鹿した朝河は入来村を訪れる。滞在したのはわずか八日間だった。朝河は旅館から「入来文書」を保管している村役場に連日通いつめ、「入来院家文書」や「清色きよしき亀鑑きかん」など十数巻の古文書や系図類を調査し、次々と筆写していった。
 比較法制史家としての朝河の学問的な関心は、ヨーロッパの封建社会と日本のそれを比較研究することにあった。
 その研究は同十四(一九二五)年、日本で「入来文書」の日本文史料の印刷が完成し、昭和四(一九二九)年にはエール大学とオックスフォード大学から英文版「THE DOCUMENTS OF IRIKI」が刊行される形で結実した。
 朝河は、その序言冒頭で「本書の目的は薩摩国入来関係の文書を用ひて日本一般の武家法制の性質及び変遷を世の学者のために例証せんとするにあり」と述べている。そして「入来文書」を選んだ理由として、(1)(文書の)年代が久遠くおんにわたること、(2)種類が豊富なこと、(3)その背景が広大であり、かつその地域が限定されていること-を挙げている。
 入来院氏は鎌倉御家人の渋谷諸族のひとつで、北薩に入部してから入来や樋脇の地に数百年定住した武家だったから、中世武家の変遷を定点観測できる格好の素材だったのである。
 「入来文書」の調査から三カ月後、朝河は横浜から再び渡米し、その後、故国の土を踏むことはなかった。しかし、朝河が著した「入来文書」によって、わが国の中世武家像が世界に広く理解されることになったのである。
(歴史作家・桐野作人) 

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