< 寄 稿 >

さつま人国誌

 鹿児島県出水市出身の作家・桐野作人氏が鹿児島ゆかりの歴史上の人物に関わる逸話を掲載します。

〈440〉加徳丸襲撃事件 2017.01.16
〈439〉朝河貫一と「入来文書」 2017.01.09
〈438〉丸田南里と勝手世運動(下) 2016.12.26

No.440
加徳丸襲撃事件
■長州攘夷派の仕業と謎
殺害された大谷仲之進が勤務していた久見崎港跡=薩摩川内市・川内川河口
 薩摩、長州の両藩は文久三(一八六三)年の八・一八政変以降、対立関係になった。
 攘夷じょうい決行を藩是としていた長州藩は下関で外国船に砲撃を開始した。攻撃対象は外国船に限らず、対外貿易の物資を積載した国内船も含まれていた。
 それは薩摩藩関係の艦船も例外ではなかった。実際、同年十二月、薩摩藩が借用していた長崎丸が砲撃されたのをきっかけに沈没したことをかつて紹介した(本欄第二六三回)。
 長崎丸事件からわずか二十日ほどしかたたないうちにまた同種の事件が起きた。加徳丸襲撃事件である。
 同年十二月二十八日、鹿児島城下・下町しもまちの商人浜崎太平次(指宿出身)が所有する加徳丸(千石積み)が兵庫を出港して長崎に向かった(「忠義公史料三」二〇九号)。
 事件を調査した小倉在勤の唐物目付・土持平八の報告書によると、加徳丸は久見崎ぐみざき(現・薩摩川内市)の船手付ふなてづき・大谷仲之進が上乗うわのり(荷主の名代)として乗り込み、翌四(元治元、一八六四)年一月十二日、周防国の別府浦べふうら(現・山口県田布施町)に入った。別府浦を選んだのは船頭の松右衛門が同地出身だったからである(上同書二二二号)。
 以下、土持の報告書から事件の経過を見てみよう。
 同夜、突然正体不明の浪士五、六人が鉄棒をもって加徳丸に乗り込んできた。連中は船頭の松右衛門を呼び出し、船の責任者を呼ぶように命じた。寝入ったばかりの仲之進が起きて甲板に上がってくると、何かやりとりがあったが、突然、二、三人が鉄棒で仲之進を打擲ちょうちゃくした。暴漢たちはうめき声を上げる仲之進の首をかき切った。また船頭の松右衛門も殺害されてしまった。驚いた乗組員たちは冬の海に飛び込んで逃げた。
 暴漢たちはボイラーの薪を取り出して積荷の綿に火をつけ、船を焼き払った。船内には綿千百本を積み込んでいたという。
 この暴漢たちは誰なのか。長州側の史料によれば、周防上関かみのせきに駐屯する長州藩諸隊のひとつ、義勇隊(総督・佐々木亀之助、秋良あきら敦之助、隊士・五〇名)に属する水井精一と山本誠一郎が首謀者だったという(「修訂防長回天史五」第六・九章)。
 当時、アメリカでは南北戦争たけなわで、南部の綿花栽培が大打撃を受けていたため、欧州(とくに英仏二カ国)では深刻な綿不足に陥っており、日本産の綿が高値で取引されていた。
 長州の攘夷派たちは薩摩藩が口では攘夷を唱えながら、綿を海外に輸出するものと疑っていた。水井と山本は仲之進の首級を大坂に運び、二月二十六日、東本願寺難波別院(南御堂)の前にさらした。罪状を記した張り札には仲之進が海外貿易が目的だと白状したので殺害したとし、薩摩藩の海外貿易を激しく非難していた。そして二人はその場で自害して果てている(「忠義公史料三」二四三号)。
 長崎丸事件から一カ月もたたないうちにこの事件が起きたため、長州藩側が危機感を抱いたことは想像に難くない。だから、この事件に藩は関知せず、一部の激派の暴走だとしようとした形跡がある。
 長州の正史「修訂防長回天史」などは首謀者が水井、山本二人だとする。しかし、異説がある。二人は事件とは無関係なのに、久坂玄瑞の命で品川弥二郎や野村やすしから自害を強要されたという(一坂太郎「長州奇兵隊 勝者の中の敗者たち」)。この事件の闇は深い。
(歴史作家・桐野作人) 

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