< 寄 稿 >

さつま人国誌

 鹿児島県出水市出身の作家・桐野作人氏が鹿児島ゆかりの歴史上の人物に関わる逸話を掲載します。

〈444〉長州方に属した薩摩脱藩士 2017.02.20
〈443〉大魯和尚の来薩 2017.02.06
〈442〉一向宗と島津氏(下) 2017.01.30

No.444
長州方に属した薩摩脱藩士
■禁門の変で敗走中、討死
相良新八郎、同頼元らの供養墓=京都市西京区樫原
 禁門の変(甲子かっし戦争)は幕末史上の大事件のひとつである。
 元治元(一八六四)年七月、上京した長州藩兵約一五〇〇人は攘夷じょうい国是確定の嘆願、三条実美ら五卿の冤罪えんざい免訴などを掲げた。長州藩は一年前の八・一八政変により京都から追放されていたことから、失地回復をめざしていた。
 しかし、交渉は決裂し、十九日、戦端が開かれた。禁裏御所に西と南から攻め寄せた長州藩兵は御所内に突入する勢いを示したが、薩摩藩や会津藩などの反撃によって撃退され、多数の死傷者を出して敗走した。
 このとき従軍した長州軍のなかには、藩士だけでなく、多数の浪士たちが加わっていた。久留米藩の真木まき和泉、土佐脱藩士の中岡慎太郎、土方楠左衛門(のち久元)、池内蔵太くらた(のち亀山社中)などが知られている。
 じつは、長州軍に薩摩藩の脱藩士が少なくとも二人含まれていたことは、ほとんど知られていないだろう。いうまでもなく、当時、小松帯刀と西郷吉之助などが率いた薩摩藩兵は長州藩兵を迎え撃つ朝廷方の主力だったから、敵方に薩摩の脱藩士がいたのは意外というほかない。
 京都市西郊の樫原かたぎはら(山陰道の旧宿場)にその墓があるというので探してみた。山陰道と物集女もずめ街道が交わる一帯の竹藪たけやぶで、ようやく三基の供養墓が並んでいるのを見つけた。
 墓標には、左から「長州 楳本うめもと僊之助せんのすけ」「薩州 相良さがら新八郎」「薩州 相良頼元」と刻んである。側面には「元治元年七月十九日戦死」とあった。まさしく禁門の変の当日である。
 薩摩出身の相良名字二人は兄弟だという。当時の長州藩に身を投じたのだから、相良兄弟は熱烈な攘夷派だったのだろう。彼らの出身地、身分、家格その他の履歴を少し調べてみたが、よくわからなかった。
 わずかに「幕末維新全殉難者名鑑」(Ⅰ)に記載があった。そのうち、相良頼元の項には「相良頼元 薩摩藩士。脱藩して宇都宮藩に走り、のち長州軍に参加、元治元年七月十九日洛西樫原で小浜藩兵と戦い死す。現地に墓。靖国」とある。
 相良兄弟は脱藩したのち、宇都宮藩士と称して長州藩に身を投じたのかもしれない。
 なお、長州藩の楳本僊之助(仙之助とも)は同藩諸隊のひとつ、集義隊の旗手をつとめたという。やはり相良兄弟とともに小浜藩兵と戦い、戦死している(右同書)。集義隊は文久三(一八六三)年十月、周防小郡おごおりで組織され、桜井慎平が隊長で五〇人の隊士がいたという(「修訂防長回天史」五)。
 気になるのは小浜藩である。同藩は譜代大藩(一〇万石)の酒井家。このとき、幕府の命で樫原に陣所を置いて警衛の任についていた。その史料にわずかに記事があった(「小浜市史 藩政史料編三」一六一三)。
 「(七月)十九日暁、お達しにより樫原へ押し出していた。(この方面では)戦争はなかったけれども、長州人の落武者だろうか、陣所へ向かって来る者五人を討ち取り、一人を捕らえた。当方には死傷はなかった」
 この五人の戦死者のなかに、相良兄弟と楳本が含まれていたと思われる。
 薩摩藩では他藩とくらべて、藩の統制が厳しく脱藩者は少なかった。そんななか、敵対する長州藩に身を投じた二人の心境はどのようなものだったのだろうか。
(歴史作家・桐野作人) 

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