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'06/05/23 夕刊掲載 
美登里のオフタイム

〜  25  〜

ミルフィーユ人生

「今年度入社したF君です」と紹介された時から私にはピンとくるものがあった。音楽制作とは、コンサートを企画しアーティストと触れあい楽しむ、という華やかな仕事とはかけ離れた肉体重労働だ。新人のF君は3月初旬、コンサート地の駅のホームで私たちを出迎えた。冷たい雨のなか不安そうにブルブル震えながら傘を持ってホールまで誘導し、コンサート終了後も駅まで見送ってくれた。が、「お疲れさまでした」とあいさつしすぐ去っていったほんの数秒間に(はー、やっと終わったゼ)という微妙な『愛情の薄さ』を垣間見た。

音楽は恋愛と同じ。ちゃんとデートしても些細(ささい)なズレで相手の心変わりを見抜いたりする。F君はミスを犯したわけではないのに、与えられた任務に対する『やらされてる感』が気になった。

数週間後。F君が会社を辞めた、と上司のNさんが伝えてきた。私が紹介された1週間後に「胃の具合が悪く、病院で検査するのでしばらく会社を休みたいんですが」と電話があった。細い体型のF君を案じ、「それは大変だね。診断書を出せば長期も認められるよ」とアドバイスしたのがアダになった。それきり1週間すぎても何の連絡もない。心配したNさんがF君のマンションを訪ねるとずっと留守にしている様子。「つまり、病気はウソで、友達と卒業旅行に行ってたんですね。仮病だから診断書なんか出せるわけなくて、バツが悪くて会社来れなくなったんですよ」。このままではいかんとNさんが実家に電話すると、F君は出ずに彼のお母さんが「息子が辞めたいと言ってます」と言い、それで退社が決定したのだそうだ。

私たちは笑ってしまった。子供の習い事じゃあるまいし、就職先まで母親の力を借りなければ物事を運べないないなんて、今後彼を雇う会社はかわいそうだねぇと。普通の企業と違って音楽産業は時間が不規則で気がつけば24時間仕事漬けだったりする職種だ。でも好きだからこその醍醐味(だいごみ)もあって、それは山登りと似ている。7合目あたり。苦しくて苦しくてもうやめよう引き返そう、とその時ふとさわやかな風が吹いてくる。山が自分を受け入れてくれる瞬間。無心になって残りの坂道を登り山頂に広がる景色に迎えられた時、「さて次はどの山を登ろうか…」とそれまでの苦労も忘れわくわくしてる自分に気づく。その繰り返し。音楽だけではない、どんな仕事も恋愛も結婚も…人はそうやって苦と楽をミルフィーユのように重ね、おいしい人生を築くのかもしれない。

(辛島美登里=シンガー・ソングライター)
鹿児島市出身の辛島さんのエッセー。隔週火曜日に掲載します。
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