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'07/10/03 夕刊掲載 
美登里のオフタイム

〜  60  〜

彼が失って得たもの

いま11月末発売のアルバムレコーディングの真っ最中で、連日深夜というか早朝までスタジオにこもり忙しかった。ミュージシャンとともに作業する時間は緊張の連続だが、疲れもピークを越えると、さまざまな話がポロリとこぼれたりする。

彼はベテラン音楽家。50歳を過ぎ昨春、よっしゃここらでいい曲を一発書いてやる! と曲作りを始めた。若手に追い越される不安を打破し、再び周囲をアッと言わせたかった。けれどそう簡単によい曲など生まれない。悩んだあげく昔ヘッドホンをして曲作りしたことを思い出した。大音量のギターを弾きながら頭を爆音でいっぱいにし、その一種のトランス状態から生まれてきたメロディーがヒットしたように、今度もそれと同じ環境にすればヒット曲ができるかもしれない。彼は夢中になってエレキギターのひずんだ音を鳴らし続け8時間が経過し、我に返るともう夜中だった。

「あー疲れた」、ヘッドホンを外すと、妙な音が耳奥にまだザラリと残っている。耳鳴りは翌日も消えず病院に行くと、「爆音で耳の神経を傷めましたね。完治は難しいです」と言われ、がく然となった。同じ爆音でも昔平気だった耳が今回数時間で壊れた、つまり紛れもなく自分は老化したこと、そして何より音楽家にとって命の、聴覚に障害を持ったという烙印(らくいん)。

「家の前が公園でね、いつも5月からセミがうるさいんだけど、鳴いてることに8月まで気付かなかったの」。絶対音感の耳は感度が鈍り、常にゴーっという雑音と時折キーンという金属音が響く。情けなさと苛立(いらだ)ちの果てに離婚、気付けばうつ病になっていた。

「音楽を辞めようと思った」。彼は続ける。「でもね。ダメになって初めてわかることもあるんだね」。耳鳴りの中にさえ『音楽』はあったのだ。「耳鳴りの雑音フィルターを通して音を感知できるようになったの。人間の体ってすごいね。ダメになった部分を他の神経が補おうと進化するんだね」。35年やってきた仕事。柱をひとつなくしても他の柱が補充できる、それが経験値なのかと思う。彼の音の判断は、耳鳴りなど信じられないほど以前と同じ的確なものだ。そしてさらに『やさしさ』が備わった。「もうひとつわかったことがあるんだ。人間ヒットでも何でもいいものを生み出そうとする時、昔をなぞっちゃいけないね。昔は昔、今は今。『今』と向き合わなくちゃ新しい感動は生みだせない、と知ったよ」。そして「さ、もうひと踏ん張りだ♪」と私をうながし先にレコーディングルームに入って行った。

(辛島美登里=シンガー・ソングライター)

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