南日本新聞社 プロフィール

南日本新聞の歩み

「南日本新聞」の歴史は、1881年(明治14年)秋の「鹿児島新聞社」の設立に始まる。創刊号発行は翌82年2月10日だった。西南の役(1877年)を契機に、鹿児島県の青年層にほうはいとして巻き起こった自由民権思想、国会開設の世論と戦役からの復興への思いを背景に誕生した。東京から記者2人を招いて、政府攻撃の鋭い論陣を張った。1882年8月10日付の社説「生きて奴隷の民たらんより、寧ろ死して自由の鬼となれ」では、官憲の怒りに触れ発行は停止、印刷機械も押収された。主筆と記者のほとんどが禁固拘留刑を受けた。

1882年春、鹿児島市に自由主義を綱領とする九州改進党鹿児島部が結成され、鹿県の有力者がこぞって入党した。「鹿児島新聞」も同党と結び、党勢の拡張をたすけた。1889年には、九州改進党鹿児島部の流れをくむ政治団体・鹿児島同志会に買い取られ、機関紙となった。

日清戦争(1894-95年)後、資本主義の急速な発展による新しい時代の到来は、政党機関紙「鹿児島新聞」に飽き足らない空気を生み出した。鹿県経済界をバックとして1899年7月3日、「鹿児島実業新聞」が創設された。同紙は、政治的には厳正中立を守り、産業経済の発展をスローガンに、新時代に即した商業新聞のスタイルを備えていた(大正2年11月15日「鹿児島朝日新聞」と改題)

2大紙の対立時代は、日華事変の激化に伴い、1県1紙の統合策が国によって強引に進められた結果、終わりを告げた。1941年12月鹿児島新聞社は匿名組合組織から株式会社に改組し、翌42年1月31日鹿児島朝日新聞社と合併した。社名を「鹿児島日報社」とし同年2月11日、「鹿児島日報」第1号を発刊した。

鹿児島大空襲(1945年)で被災した社屋の復旧工事も一段落した翌1946年2月11日、報道言論機関の機能が重要化するにともない、社名を「南日本新聞社」、題字を「南日本新聞」と改めて、再出発した。

南日本新聞社の株式の全株は、社員によって保有されている。これは、1941年の新聞事業令で新聞の株式は新聞従業員でなければ保有できないことになっていたため、社外株を従業員が自力で調達した資金21万円で買いとったことに始まる。株式の社内保有制度は、現在においても厳格に守られ、新聞の自由、編集権の独立をささえる大きな力となっている。