霧島市横川町上ノの山あいを流れる天降川の支流沿いに、手入れが行き届いた水田が広がっている。1枚1枚は小さい。びっしり並んだ稲は曲がりくねったあぜに仕切られ、緑のジグソーパズルのようだ。22世帯42人が住む下小脇集落。のどかな田園風景とは裏腹に、農村存続の危機が迫っていた。
「今は何とか田んぼを作っているが、5年、10年先はどうなるか分からない」
自治会長の徳田辰典さん(66)は顔を曇らせる。住民はこの50年間で3分の1以下に減り、65歳以上の高齢化率は6割を超えている。住民の多くが農地を所有しているが、自ら耕している農家は6戸だけ。いずれも数10アール規模で後継者もいない。
人家から少し離れた山中の水田は既に耕作放棄された。「人手がないから集落内の農地で手いっぱい」と徳田さん。集落全体の水田3.8ヘクタールのうち半分の耕作は隣の上小脇集落の農家などに頼んでいるという。
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| 川沿いに広がる下小脇集落の田んぼ。自治会長の徳田辰典さんは「5年後はどうなるのか」と心配する=8月28日、霧島市横川町上ノ |
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徳田さんが作る田んぼは約65アール。中学卒業と同時にコメ作りに携わって約50年になる。9年前に心筋梗塞(こうそく)で倒れ、薬を手放せない体だが、「親から受け継いだ田んぼを荒らすわけにいかない」。肥料や苗代などを差し引くと毎年、手元に残るのは15万円前後という。年金など他の収入がなければ生活は成り立たない。
農家の高齢化や後継者難の深刻さは耕作面積が狭い中山間地に共通する。戦後の農政のひずみの一端が映る。
1960年代初めの下小脇の農家数は26戸。徳田さんは「そのころから農家の数が減り始めた」と記憶をたどる。高度経済成長時代のまっただ中で農業基本法が制定された時期(61年)と重なる。
同法は農業の近代化や農工間所得の格差解消などを目指したが、小規模農家の離農を促し、工業労働者として都市へ流出する動きを加速した。下小脇の農業人口は69年までの9年間で4割減の70人台に落ち込む激しさだった。
「農業収入だけでは世間並みの生活が出来なくなったため、現金収入のたやすい雇われ兼業へ転向した」
下小脇など過疎地域を対象に70年に作成された旧農林省鹿児島統計調査事務所のリポートだ。旧横川町は当時、農業振興策に、自立経営農家の育成強化や魅力ある農村建設など3つの基本構想を掲げた。しかし事業を行うにも農地の狭さなどが壁になり、事態は改善されなかった。
「大部分の農家は集落機能も失われると憂えている」(同書)。道端の草払いや葬儀の炊き出しなど一部の共同作業は辛うじて続いているものの、当時の不安は的中しつつある。
地域の農業・農村を支えているのは数多くの小規模農家だ。徳田さんは「小さな田んぼも一度つぶせば、万一の食糧難に対応できない。政府も分かっているはず」と訴えるが、その声は届きそうもない。
























