TOP 奄美なひととき > 2013年1月
shadow

むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話~島尾敏雄と加計呂麻島~

author: 三嶽 公子(更新日:2013年1月10日)

加計呂麻の波止場

古仁屋と加計呂麻をつなぐ足のひとつ、海上タクシー。定時運行に加え、タクシーなので貸し切ることもできる。

天女のような絶景と海軍基地

奄美北部にある空港から約一時間で奄美市名瀬。そこで乗り換えて、奄美最南端の古仁屋まで、さらに一時間半。奄美を北から南に移動するバスは、海岸線沿いを通るので、浜辺や湾の美しさが目に沁みる。奄美は、やっぱり海だね。そして湾だね。

加計呂麻島が、今回の旅の目的地。古仁屋にある「海の駅」から、加計呂麻島の生間港か瀬相港までフェリーで約20分。急ぐときは、海上タクシーもある。

加計呂麻島の道路は、ゆるやかなカーブの坂道が多い。坂道を下るときに、眼前にスワーッという感じで、浜辺や湾が広がる光景にたびたび出くわす。「舞い降りた天女のようだわ」と思えるほど、絶景の連続。

瀬相港から車で10分ほどの呑之浦に、島尾敏雄文学碑が建っている。海沿いの山の斜面にある文学碑から、呑之浦の湾が、敬虔な祈りを捧げたいほど静かに広がる。

ここに約70年前、海軍基地があり、200人近い兵隊さんが居住し、いままさに水上特攻艇に乗り込んで、若い命を破壊しかけたときがあったとは。あまりにも静かな湾内に、かつて浮かべられた「震洋」という名の水上特攻艇を想像することすらできない。湾に沿った遊歩道を歩くと、戦時中に作られた壕が残っており、そこには「震洋」の模型が設置してある。まさしくおもちゃで、リアリテイがないばかりか、戦争そのものがまるでおとぎ話のように思えてくる。




震洋

250キロの爆弾を装着した合板製モーターボートで、海上特攻兵器の「震洋」の模型。

奇跡の小説「はまべのうた」

九州帝国大学を繰り上げ卒業し、海軍に志願した27歳の島尾敏雄は、昭和19年11月、第18震洋隊の隊長として、この呑之浦で特攻出撃を待った。隊員は183人。島人の協力を得て、軍隊にインフラを整備し、隊長として活動をした。その最中に出会ったのが、押角国民学校で先生をしていた大平ミホ。ふたりは恋に落ち、激しく愛し合うようになる。かねがね死を覚悟していた島尾敏雄は、自ら書いた童話風の小説「はまべのうた」をミホに託す。郵便事情の悪いなか、奇跡のように、福岡の友人・真鍋呉夫に届けられた。

昭和20年8月13日、この島尾隊に特攻出撃命令が出されたが、8月15日の終戦によって、決行されず、島尾は生きて帰り、遺書となったかもしれない小説「はまべのうた」を自ら手にして、文芸同人誌「光耀」に発表した。

この小説は、「みんなみのある小さな島かげにウジレハマとニジヌラと呼ぶ二つの部落がありました」と始まる。ウジレハマは押角部落、ニジヌラは呑之浦の部落と想定される。戦争とは全く裏腹な童話という手法で、小さな島の少女ケコちゃんとその学校のミエ先生と隊長さんの交流が幻想的に描かれる。ミエ先生の自宅は薔薇の花がいっぱいで、ふたつの部落をつなぐ峠から、「遠くの島かげは心に遠くうす墨ではいたようにかなたの水平線に浮かび上がって」、潮騒や松籟の音が子守歌のように「峠に立った人々を夢の気持ちにさせ」、「お月夜のばんなどにはこのふたつの部落はまるで青い青い水底に沈んでいるよう」であったという。ケコちゃんは隊長さんに心を許し、隊長さんもケコちゃんとミエ先生に優しく接する。そのうちにケコちゃんの一家は故郷の島に帰り、兵隊さんたちもいなくなった。

島尾敏雄が戦後最初に書いた小説「島の果て」もまた、「むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話ですが―」と始まって、薔薇の花に埋もれたトエという女性と海軍の隊長の愛を描くもので、「はまべのうた」と同じように、メルヘン調の作品である。




呑之浦湾

呑之浦の湾内。この浜辺沿いに「震洋」を格納したであろう壕がいくつか点在する。

青い水底、薔薇の垣根

いま、ニジヌラ(呑之浦)とウジレハマ(押角)をつなぐ峠に立ってみる。呑之浦トンネルのあたりだ。潅木が湾内の景色を遮るが、やはり「夢のような気持ち」になる。押角小学校は、廃校となり、校庭に子供の姿はなく、ニジヌラから通ってくる子供もいない。隊長さんとケコちゃんが訪ねたミエ先生(大平ミホ)の家も、かつては押角郵便局の近くにあったが、いまでは畑になっているという。

しかし、「はまべのうた」や「島の果て」の幻想性を現在の加計呂麻に重ねることは、決して難しくない。青い水底、ふくろう、ちどりの鳴き声、薔薇の垣根は今でも幻視できる。似合わないのは、海軍基地だけ。




島尾家墓碑

島尾敏雄の遺骨は、福島県南相馬市小高区にある「島尾家之墓」と、この呑之浦の墓碑に分骨されているという。

充実する島尾敏雄コーナー

戦後、島尾敏雄と大平ミホは結婚し、小説「死の棘」に描かれるような壮絶な夫婦の葛藤を経て、夫婦の再生を願って、昭和30年、奄美・名瀬市に移り住んだ。鹿児島県立図書館奄美分館の館長となり、新しい歴史観「ヤポネシア論」を発表したり、昭和50年に指宿市に転居するまで、島尾夫妻は、奄美文化の支援者かつ発信者であり続けた。

現在、古仁屋にある瀬戸内町立図書館と、奄美市名瀬の県立図書館奄美分館には、島尾敏雄コーナーが充実し、奄美分館長時代に住んでいた官舎が島尾敏雄記念館として一般公開され、学芸員も常駐して、島尾文学に触れる場所となっている。

昭和61年、脳出血のために亡くなるまで、島尾敏雄は、この加計呂麻島での戦争体験を、緊密な文体で繰り返し書き綴った。「出発は遂に訪れず」「出孤島記」「その夏の今は」などの作品群は、文学的に高く評価され、読者の心を深くえぐる。しかし、「はまべのうた」や「島の果て」の童話的ユートピアの美しさは、現在の加計呂麻そのもの。理不尽な死を目前にした作家の内面に、ふと加計呂麻の精霊が舞い降りたに違いない。

そうさ、あの戦争は、夢だったのさ。そう言わんばかりに、文学碑のその上の高台に、島尾夫妻と長女マヤさんの墓碑が建つ。




三嶽 公子(みたけきみこ)三嶽公子

鹿児島市天文館にある「文学サロン 月の舟」主宰。月の舟自由大学学長。古典から現代まで幅広く教える日本文学講座講師。文学散歩の企画実施20コース以上。海外生活、母親経験あり。孫育てと旅と読書が大好きで、おしゃれな文芸評論家をめざす永遠の熟女。

shadow

奄美が大好き!なわたしが、旬の奄美をご紹介

越間多輝鐘さんあまみんちゅ[no.8]
越間多輝鐘さん(大島紬村代表取締役)

「大島紬の技術は世界に通用するものです」と穏やかだが力強く語る越間多輝鐘さん。昭和47年をピークに大島紬の生産は減少が続いているが、復権を信じて様々な取り組みを続けている。大島紬村(右写真)もそのひとつ。紬の技術や伝統に触れることができる人気スポットで、年間を通して多くの国内外の観光客が立ち寄る。大島紬村

「大島紬の価値は、その技術や手間にある。だから思い切って、その制作工程を表に出してみたんです」工場の見学だけでなく、泥染めや手織りといった行程の体験もできるようになっている。「紬作りの体験からひとりでもファンが増えてほしい」と微笑む。

伝統的な技術を誇りながら、その技術を「時代やニーズにどうフィットさせていくか」を常に考えているのだそう。結マフラー自ら手がける紬ブランド「多輝鐘(TAKIKANE)」をはじめ、紬の技術を生かした洋装や生活工芸品にも、その思いは強く込められている。新ブランド「結(ゆい)」のマフラー(左写真)など若い世代から人気を集めるものも増えてきた。「これからは若い感性の時代です」と後進の育成にも力を注ぎながら、大島紬を世界のブランドにすべく、自らもまだまだ「挑戦し奔走したい」。(2013年1月24日)


大きな地図で見る

DATA

大島紬村

  • [住所]鹿児島県大島郡龍郷町赤尾木1945
  • [TEL]0997-62-3100
  • [営業時間]9:00-18:00(4月~9月)
  • 9:00-17:00(10月~3月)
  • [工場見学]大人¥500 小人¥200 (小・中学生)
  • [定休]無休
shadow