TOP 奄美なひととき > 2014年12月
shadow

小さな離島のまち・瀬戸内町に思う

author: 藤井 愛一郎(更新日:2014年12月11日)

古仁屋の風景

高知山からの風景。大島海峡をはさんで向こう側に加計呂麻島が見える(撮影・森直弘)

「帰りたい」と思わなかった故郷

瀬戸内町は奄美大島南部に加計呂麻島、請島、与路島という三つの有人離島を抱える人口9500人ほどの小さな町だ。町役場や主要な公共機関は古仁屋地区にある。小さい頃は賑やかだったように記憶しているが、現在はどこの地方に同じく空き店舗と空き家が続いている。ぼくの店のある一区画は商店ばかりあったはずだが、現在営業しているのはたったの六店舗に過ぎない。

小さい時には、こんなに小さい町だと思っていなかった。昔に比べて人口も減ったのだから正確には「小さくなった」のかもしれない。それでもぼくは、今のこの町が嫌いではない。

父は、この町が好きだったのかと思うことがある。都会で仕事をしたかったのではないかと思う。商売人の跡取り息子で、八人兄弟の長男であれば当時は仕方がなかったのかもしれない。

小学4年生の頃から、ぼくは塾に行かされていた。学習塾に通うことは当時あまりないことだった。父は、ぼくを早くから島の外に出してくれようと努力してくれていたのだと思う。めでたく高校で鹿児島市内に進学することになり、それから20年間島を離れた。その間、一度も「帰りたい」と思ったことはなかった。

大学を卒業し、東京に出た。働いた会社はいい職場だったが、十年たって体調を崩した。その頃、初めて奄美にゆっくりと帰省した。それまでは葬式と結婚式で帰ったくらいだった。20年前と比べ、小さくなった両親を見て「帰ろう」と決めた。仕事の引継ぎをして島に戻ったのは、その一年後だった。

帰ってすぐの頃、両親をつかまえて「なぜ島に戻ろうと思ったか」一時間ほど話した。「都会の生活が嫌になったから島に帰るのではない。都会では生活できなくなったから戻るのでもない。自分の役割は家を継ぐことだ。」そんなようなことを話した。そのことを話さずにはいられなかった。「負けて帰ってきた」と思われたくなかったエゴかもしれない。




ここから学校に向けて歩き出す。夏はランドセルを置いて、朝から遊びたくなる風景だ(撮影・森直弘)

島や町のこと、子どもたちに伝えたい

それから結婚をし、生まれた長男は小学校一年生になった。入学当初から週に三度、2.5キロの道を自宅から学校まで一緒に歩いている。暑くてタオルで汗を拭きながら歩いた季節を過ぎ、今では時折ポケットに手を突っ込みながら山道を約一時間かけて登校している。ハブが車にひかれているのを見つけたり、ルリカケスやリュウキュウアカショウビンの鳴き声を聞いたりしながらの道のりは子どもでなくても楽しい時間だ。飼われているヤギやニワトリが道路に飛び出したりしているときは足取りがさらに軽やかになる。天候による海の色の変化や、太陽の昇る場所が少しずつ移ってゆくのを日々見ている。

歩きながら息子と話をすることは少ないが、もうしばらく一緒に歩いてみようと思っている。

町の商店街も小さくなった。三年前に、地域の先輩たちと「せとうちポイント会」を立ち上げた。ネット販売や奄美市への購買流出を少しでも抑えるために、町内でお金が回るしくみだ。これまでつながりの少なかった他の商店主と話すのは、今のぼくにとって大切な時間だ。

会の立ち上げをきっかけに、「まち」について考えることが増えた。

生まれた町だからというだけで、仕方なく住みたくはない。被害者意識を抱えたまま、子どもを育てたくはない。島のことや町のことをもっと知って、子供たちに伝えていきたい。僕が小さい頃知らなかったことを、たくさん体験してほしい。何年かたって、小さいなりの、離島なりの、住みたくなる町になったらいい。大きくなった三人の息子たちにも、積極的にこの町の住民になってほしい。







シーカヤックマラソン大会

大島海峡を舞台に毎年開かれるシーカヤックマラソン大会。全国からファンが訪れる

「外からの視点」上手に使おう

現在ではぼくのようなUターン組の他に、Iターン者も増えている。外からの視点を上手に使って、観光客を呼び込んでくれている。商店街にもそういった視点が必要だと感じている。ぼくも忘れつつあるよそ者的な脳をフルに使って、もうしばらくこの町をかき混ぜていけたらと思う。

奄美大島に戻って12年になった。戻った当初は37歳の会だったが、この年末も「数え49歳の全国同窓会」のため準備に追われている。いつから始まったのかは知らないが、生まれた干支の年、数え37歳、49歳、61歳、73歳の正月には全国に散らばった同窓生が島に戻ってくる。東京にいた頃、同窓づきあいがこんなにも大変なものだとは思いもしなかった。同窓生が結婚するときは実行委員会を立ち上げ、親が亡くなったと聞けば葬式の手伝いをし、祭りには同窓生対抗で船こぎ競争に出場する。なにかにつけ、○○年生まれというのがついてまわる。

こういったつながりが、実は不得手だ。でも五十代、六十代の先輩たちを見ていると、いっそ楽しんでしまったほうが得なのかも、という意識も働いたりする。

来年正月2日、町のそこらへんでクダを巻いているのはぼくの同級生たちだろう。




藤井 愛一郎(ふじい・あいいちろう)著者紹介

1967年、瀬戸内町古仁屋生まれ。シマのお茶屋 お茶の不二園店主。店舗はせとうちポイント会の事務局も兼ねる。三児の父でもあり、月に一度店内で絵本の読み聞かせ会も開催している。

shadow

奄美が大好き!なわたしが、旬の奄美をご紹介

あまみんちゅあまみんちゅ[no.31]
松村 雪枝さん(えらぶ郷土研究会会員)

沖永良部島の方言のことを島ムニという。言語学的には奄美大島と性質が異なり、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は「国頭(くにがみ)語」と分類、「絶滅の危険がある」と指摘している。その島ムニを次世代に残そうと、島に伝わる民話などを島ムニに訳しては、音源として残そうと試みている。

沖永良部島生まれ。高校を卒業後、就職のため島外へ。病院で働きながら看護学校へ通い看護師になる。2007年10月、約32年間勤めた医療の現場を去りUターン。テレビやインターネット、車もない生活を送る。イメージは幼少期だったころの昭和30年代。「時代に逆行するような生活でしょ」と笑う。

島ムニの継承活動の根底には、島の文化、そして1986年から続ける自身の看護研究(死期の看護)につながるものがあるという。20年以上、死期の看護を研究する中で、「死の準備教育」というテーマにぶつかった時、それは本来、昔の日本では自然の形としてあったのでないか、ということに気づいたという。

Uターンした大きな理由は、医療の世界を外から見つつ死期の看護の研究を続け、文筆作業に専念できるということ。そのような中、「旧き時代の日本」がまだ残っている島の文化に、新鮮な興味がわいた。さらに一橋大学大学院で島ムニを研究している徳永晶子さんと出会って、島ムニの希少価値を再認識。「島の宝。そして日本の宝を守ろう」と決心した。方言が島の文化の真髄でもあり、そして自身の研究にも通じると思えるようになった。

「鹿児島人でも奄美人でもない。琉球文化圏だが、沖縄人でもない。沖永良部人なんです」。そのアイデンティティを象徴する形として島ムニはある。その一心として、島ムニの教材づくりや小学校などでの出前授業も請け負う。「今は島ムニを守る使命感のようなものも生まれています」と話した。

DATA

一年間を通して花が咲きほこる沖永良部島

  • Uターンして不自由、不便、質素な暮らしをしていると、自然の変化を新鮮に敏感にキャッチできるようになります。都会生活の中で置き去りにされた大切な物が次々と観えてもきます。沖永良部島は霜が降りないため、年間を通していろいろな花が咲きます。都会で「心の貯金が底をついた方々」に沖永良部島の自然と人の温かさを感じてもらいたいです。
  • [えらぶ郷土研究会HP]
    http://shimakatari.com/index.html
shadow