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海辺の愛と死

~ミホとトシオの物語~

author: みたけ きみこ(更新日:2015年9月10日)

島尾敏雄・ミホ

昭和19年夏、海軍少尉任官の頃の島尾敏雄=写真左、島尾敏雄と出会ったころのミホ=同右(いずれも、かごしま近代文学館所蔵)

1945年8月13日「その夜」

1945(昭和20)年8月13日、26歳のミホは、奄美・加計呂麻島の闇夜の浜辺をトシオに会うために特攻基地へと向かっていました。この島に基地をもつ海上特攻・震洋隊の隊長であるトシオ(28歳)が、その夜、出撃予定であると教えてくれる人があり、「とにかくひとめあわせてください」「隊長様、死なないでください」と祈りながら、ミホは走りました。井戸で身を清め、真新しい白の肌衣と襦袢(じゅばん)、白足袋、白羽二重の下着、母の形見の喪服をまとい、トシオから贈られた短剣を手に握り締めながら。ガジュマルの地根に足をとられ、闇夜の磯浜は一寸先も見えず、牡蠣(かき)貝、やわらかい砂浜、野いばらの茂みを感覚で探りつつ、ときには海に落ち、泳ぎ、妖怪ケンムンを恐れながらも、ティファ崎の岬、ウシロティファ崎を通り越し、タンハマの鼻を廻ったところで、ようやく基地に辿り着きます。ミホ来訪の知らせを受けたトシオは、「演習をしているんだからね、心配することはないんだよ」と優しくミホを諭し、口づけして、慌しく任務に戻ります。

この8月13日のことを、戦後30年たってから、ミホは「その夜」という作品に詳しく書きました。この作品のなかで、ミホは震洋艇の出撃を見届けてから、「海へ突き出ている岩の一番端に立って足首をしっかり結び、短剣で喉を突いて海中に身を投げる覚悟を決めていたのです」と告げています。しかし、トシオは特攻出撃することなく、ミホも自決することなく、その二日後に終戦を迎えます。

押角小学校の跡

ミホが勤めていた押角小学校跡。現在は廃校になっている。小学校にトシオが教科書を借りに来て、ミホと出会った

ミホとトシオは、奄美・加計呂麻島で出会いました。ミホは、島に生まれ育ち、東京の女学校を出て、また島に帰って押角小学校の先生をしていました。トシオは横浜に生まれ、九州帝国大学を繰り上げ卒業し、昭和19年に第18震洋隊の指揮官として島に赴任してきたのでした。東洋史を勉強したトシオは、ミホの父の所蔵する中国関係の書物に興味をもち、ミホの家に出入りするようになり、ふたりは恋に落ちます。

戦時下で夜毎愛し合う恋人たち。もしかしたら、ごく普通の愛のかたちかもしれません。しかし、ミホとトシオの恋物語は、「ともに生きる」のではなく、「ともに死ぬ」ことにありました。ふたり同時に死ぬ瞬間が、恋の快楽の最高潮。その期待と落胆。死刑執行とその不履行に匹敵するほどの激しい「死」への傾斜と恋の高揚。戦後、ミホとトシオは神戸で結婚し、子どもふたりに恵まれ、トシオの文学の仕事も力強さを増していったにもかかわらず、どこかに「死」あるいは破壊を介在させてしまう、その愛の在り様は、戦争の大きな傷跡のひとつかもしれません。人生の指針を大きく「死」の側に傾斜させたまま、「生」と「死」がバランスを欠いて、戦争は、人間の営みに「死」の影を深く落としていきます。

トシオの女性問題をきっかけに、ミホが心因性反応を起こし、「ミホ気がふれそうになり、台所板の間で水をぶっかけ頬をうち治る」(『「死の棘」日記』昭和29年10月3日)という状態へ移行していくのも、ミホとトシオの物語を知る者には、違和感はありません。またしてもここで、「死」の匂いが充満しています。小説「死の棘」の世界、すなわちミホとトシオの壮絶な夫婦の葛藤も、敗戦の前々日8月13日からはじまっていたとも言えるでしょう。




加計呂麻にある記念公園

加計呂麻島にある島尾敏雄文学碑・記念公園

1974年7月25日「海辺の生と死」

「死」の側に大きく振り切ったベクトルが、「生」のほうへ傾き始めるのは、ミホとトシオがとともに入院していた精神病院を退院して、昭和30年に奄美に夫婦で移住し、その後、ミホが随筆集『海辺の生と死』(1975年)を刊行した頃からでしょう。ミホが体調を崩したあとの気の弱りを克服するために、幼時の父母の思い出をはじめとするお話を書くように勧めたのは、トシオでした。

『海辺の生と死』には、「旅の人たち」「鳥九題」「洗骨」などの作品が収録されています。なかでも表題となった「海辺の生と死」は、強烈な印象を残します。海辺の「生」は、山羊の赤ちゃんの誕生、海辺の「死」は、浜辺での牛の屠殺(とさつ)。

牛は優しい眼つきで私の眼を見ていました。涙がこぼれそうなぐらいにあたたかい眼でした。斧を持った阿仁おじが何かに区切りをつけるように、「がんば」と言って私の側にきて立ちました。私は「ああ、まき(眉間)を打つのだわ」と思ったんです。でもちっとも怖くはありませんでした。ただ「さようなら」だと思っていました。(「海辺の生と死」より)

真昼の白い砂浜、牛の屠殺の現場に赤いふんどし姿の男たちに交じり、「死」を、ただ「さようなら」だと思う、幼いミホ。そこでは、「生」と「死」が同じ地平にあります。このバランスこそが、「ちちはは」のいるところであり、ふるさとであり、大自然の母なる奄美であったのでしょう。




敏雄と家族が住んでいた宿舎

島尾敏雄とその家族が奄美分館長時代に住んでいた当時の宿舎。現在も保存されており、敷地内には島尾敏雄文学碑も置かれている

1999年「ドルチェ-優しく」

ロシアの映画監督アレクサンドル・ソクーロフは、80歳を過ぎたミホを主演女優として、娘のマヤとともに映画に収めました。1986年11月12日に亡くなったトシオも写真で出演しています。奄美の海を大胆に映像化し、海とミホが溶け合うような不思議な映像。どこか「ふわり」とした印象の、天女のような、というのか、人間世界にいない、というのか、生と死を超えているというのか。その存在感をソクーロフ監督の「ドルチェ-優しく」という映画はうまく表現しています。実は、筆者(みたけきみこ)は、ミホさんに一度お遭いして、一日を加計呂麻島で過ごしたことがあるのですが、そのときの「ふわり」とした印象が映画のなかでもそのままだ、と思えました。わたしの名前を「みたけさん」とおっしゃるときの声の響き、言語障害がおありだったマヤさんをお手洗いに連れて行かれるときのミホさんは、映画のなかのミホそのままでした。

生身がそのまま女優になり得るという気迫、存在感、「ふわり」と、老女と少女のあいだ、この世とあの世、現実と夢をつねに行き来するミホ、押角小学校近くから呑の浦の基地までを闇夜に走ったミホの姿は、その死(2007年3月25日)を超えて、いまでも立ち上がってきます。

マヤさんの洋服

保存されている宿舎には、マヤさんの洋服やランドセルなどが展示してあった

いま、ミホとトシオが、鹿児島県立図書館奄美分館長時代に暮らした宿舎が保存され、資料館となっています(現在は不定期開館となっています)。一昨年、そこを訪れたとき、ミホとトシオの物語から生まれた宝物のように、幼いマヤの服が飾ってありました。生身の人間の熱をもっているかのようで、しばし、うっとりと眺めたものです。

作家であり歌人の島尾ミホと、「出発は遂に訪れず」「出孤島記」「死の棘」など数多くの傑作を遺した島尾敏雄の物語は、激しい愛の姿をこれからも強烈に伝えていくでしょう。そこには、戦争という傷跡が介在していたことを忘れてはなりません。奄美の自然は、生と死の豊かな循環を教えてくれる、ということも。(敗戦から70年。「戦争を知っていた作家たち」シリーズ「銀河叢書」(幻戯書房)の一冊に、島尾ミホの未完の長編小説「海嘯(かいしょう)」が選ばれています。)

加計呂麻島の風景は、以前にもこの「奄美なひととき」で取り上げさせていただきました。こちらです。よろしかったらあわせてお読みくだされば、幸いです。




みたけ きみこ著者紹介

鹿児島市天文館にある「文学サロン 月の舟」主宰。月の舟自由大学学長。古典から現代まで幅広く教える日本文学講座講師。文学散歩の企画実施20コース以上。海外生活、母親経験あり。孫育てと旅と読書が大好きで、おしゃれな文芸評論家をめざす永遠の熟女。

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奄美が大好き!なわたしが、旬の奄美をご紹介

あまみんちゅあまみんちゅ[no.40]
奥 光太郎さん(ケンムン村責任者・陶芸家 奄美市笠利町)

「とにかく奄美を楽しんでもらうことが大好き。そのためには、まず奄美に住む僕たちが楽しまないと」―。島人の暮らしを体感できる「ケンムン村」の責任者を務める一方、陶人形を中心に個展や教室を開催する陶芸家でもある。そのほか、スケートボード場を造ったり、塩を作ったり、ガイドをしたりと、日々「忙しい」と言いながらも楽しく駆け回る。

奄美市笠利町出身。高校まで島で育ち、卒業後は「食いっぱぐれしない」という理由から調理師の道へ。島を出て大阪や宮崎などで修行を積んだ。しかし、なかなか住み着きたい土地が見つからず、各地を転々すること約7年。「海がないと不安」といった思いもあり、自分の居場所を整理する中で、「求めていたのは地元の奄美」だと気付いた。

Uターン後は、父親が経営するホテルで調理を担当。ある時、「荒天の日でもお客様を喜ばせられないか」と相談を受けた。「それなら室内で体験が出来るものがいい」と、27歳にして陶芸の道へ。奄美の土は鉄分が多く、教材通りにはいかなかったが、大島紬に使う泥染めの泥を塗り込むなど試行錯誤を繰り返し、自分のスタイルを確立した。

あまみんちゅサブ

手がける陶人形は、奄美の森に住むとされる妖怪「ケンムン」。作品にも奄美の特色を生かしたいと思っていたところ、適当に作っていた人形が、周りから「それケンムンでしょ」と言われるように。「まだ、ゆるキャラとかもない時代。陶人形のケンムンで奄美を盛り上げたいと思った」。ケンムン作りは現在も続いている。

奄美を「全てを教えてもらっている所。時には先生、時には親のような」と話す。自然と共存しながら、文化を尊重することは「人間にとって大事なこと。忘れてはならないこと」と力を込める。そして何より「こんな素敵な奄美を楽しんでもらいたい。ぜひ遊びに来てほしい」と呼びかけた。

あまみんちゅメイン

DATA

「OUTDOOR SPACE KOYA」
(アウトドア スペース コヤ)

  • ケンムン村に今年オープンした観光客向け簡易キャンプ場。コンセプトは、「自然のままに生きる」。人工物がまったくない高台にあり、目の前には大海原が広がる絶好のロケーション。晴れていれば、夜は満点の星空を堪能できる。テントからバーベキューセットまで、キャンプに必要な物は貸し出し(有料)があるため、手ぶらで来ても楽しめる。キャンプ場には管理人もいるため、キャンプ初心者でも安心。大自然の中で、ゆったりとした時間を提供している。

    [店舗情報]
    <住所> 奄美市笠利町用安1246―1
    <予約電話> 0997(63)2658(午前9時~午後6時)
    ▽チェックイン(受付時間)12:00?18:00
    ▽チェックアウト(翌日)9:00?12:00
    <HP>http://ods-koya.com/top.html
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撮影/南日本新聞社

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