風景・街並み(南薩・日置・串木野)

昭和36年、旧日吉町吉利の緑のトンネルを思わせる竹垣。「“屋根山”とか“屋根木”といって南九州の住居の特色」で、「台風や大雨、干ばつなどの防壁として、自分たちの暮らしを守るために大切に守りつづけてきた」。
昭和42年、旧串木野市の串木野駅の一コマ。車の普及の影響で「薩摩郡方面から、魚の買い出しのオバさんが数十人も乗り降りしていたのが、めっきり減った」と当時の紙面。
昭和37年、旧吹上町の伊作商店街。「ブロックやモルタル塗りの近代建築がならび、コンクリートの舗装が完成、町外買い出し流出を防ごうと、専門店会の発足など、堅実な経営がすすんでいる」と紙面で取り上げている。
昭和45年、旧東市来町の江口海岸。「江口漁協があり、イリコ漁を中心に活気があり、地びき網を引く漁師の姿が見られる。白い浜、青く澄み切った海、ここはまだ公害には汚染されていない自然がある」。
昭和38年、旧串木野市に帰港するマグロ船。当時は串木野、島平、羽島の3港で約180隻が操業し、写真は「串木野港の名物漁願相撲がせまり、3港に100隻のマグロ船が帰ってきた」様子。
昭和55年、旧伊集院町の銀天通り商店街。「道路が拡幅されるのを機に、商店街の大改造を図ろうとするもので、協同組合・銀天街を設立、近代的な商店街造りに乗り出すことになった」。
昭和34年、旧伊集院町の田んぼの真ん中にある水車小屋。「遠くできけば、カタ、カタ、コットン…牧歌的なメロディー、近くできけば、ゴー、ゴワーと小さい滝のよう。水車が回るたびに水しずくが秋の陽にキラキラと宙に舞う」。
昭和37年9月、旧吹上町入来海岸。「秋はカマスのシーズン。漁師さんは連日出漁している。網の手入れ、つくろいをしてはつぎつぎに船に積みこんでいく忙しさ。早朝には大漁旗をかかげて海の幸をどっと水揚げしている」。
昭和36年、旧市来町の河口、砂丘と湊町を結ぶ観光橋。「長さ110メートル、全木造、幅1メートルで満潮時にもポンポン船が通れる高さ。市街地から行くには上流の橋を遠回りし、約2キロも歩かねばならなかった」。
昭和37年、旧東市来町湯之元。「昨年3月国道5号線の長里-湯之元間1200メートルの完全舗装が完成、伊集院側の舗装工事がことし3月におわったので、鹿児島-湯之元間の道路は全面舗装のデラックスなものになった」。
昭和28年6月、旧串木野市の串木野漁協。「黒マグロのシーズンを迎えてテンテコ舞いの串木野港に、2日は約6000貫近くが水揚げされ、今シーズンのレコードをつくった。」
昭和36年、旧知覧町の手蓑峠。知覧茶の育成や耕地整理などを農民の先頭に立って断行し、また鹿児島-枕崎間の県道開さく運動に奔走した同町出身の平山隼雄をたたえ、昭和15年に記念碑(写真左)が建立された。
昭和34年、旧頴娃町の摺木部落。明治時代からロサンゼルスへの移民が成功し「部落全体が新しいものを取り入れようと活気にあふれ、アメリカ帰りの人たちが、まず買いはじめたのがきっかけとなってオートバイの部落になった」。
昭和53年、旧川辺町と旧知覧町境の厚地川にかかる蟹が地獄鉄橋。廃線となった南薩鉄道旧知覧線で「渓谷はるか空間を突っ切る橋梁(りょう)は、鉄道の栄枯盛衰の歩みを物言いたげに語りかけているようだ」。
昭和37年、旧知覧町で整然と下校する知覧中生徒たち。「知覧中生徒会は、知覧町が交通安全町を宣言したのを機会に、自転車組合を組織、また道路標識をたてて交通整理に活躍している」。
昭和34年、旧川辺町の商店街。「この数年来めきめき充実し、およそ二キロにおよぶメイン・ストリートが形成されている。農村で繁華街が二キロも続いているところは珍しく、バックには豊かな農村経済の力のあることが想像される」
昭和48年、旧知覧町の城下町の名残がある街並み。「知覧は“薩南の小京都”と呼ばれる静かな城下町だ。また戦時中の特攻基地と、霧の深い適地条件に恵まれ全国水準をいくお茶どころで知られている」
昭和43年、旧頴娃町の番所鼻公園からのぞむ開聞岳。「番所鼻、戸柱の両公園からのぞむ開聞岳の姿は美しく“薩摩富士”と呼ぶにふさわしい。海岸線からは、空気の澄んだ日など屋久連山、硫黄島、黒島などを見ることができる」
昭和30年3月、指宿市の池田湖。「琵琶湖とともに稚アユの生産地として有名な池田湖ではいま稚アユの採捕がはじまっている。地曳網で寄せあつめ、ワカサギやフナなどを取り除いたあと、稚アユだけをイケスに移すもの」と取り上げている。
昭和47年、旧山川町の山川港。「山川港はまわりを小山に囲まれた奥まった港になっており、天然の良港である。また静岡県の波浮港と並ぶ火口港でもある。」と当時の紙面。写真は船だまり近くで遊ぶ小学生。右寄りの二階建てのビルが漁協。
昭和49年、旧山川町の鰻池湖畔。「夏草の生い茂った湖畔に五棟の弥生式小屋が建っている。青少年研修会が『青少年に自然との交流の場を』と建設した訓練棟である。四季を通じて若者たちでにぎわっている」と当時の紙面で取り上げている。
昭和37年、旧山川町山川港の天然露天ぶろ。「満潮時には海面下にかくれるから、そうじの必要もなく、干潮をねらって大自然の中にゆったり体をひたす。後ろは高いガケなので、のぞかれる心配もなく、全くのハダカ天国」と当時の紙面。
昭和37年、旧坊津町。「坊津町は県下でも有数の急傾地帯。このため頭の上にのせて物を運ぶ“かんめ”という風習が続いている。段々畑でタキギを運んだり揚げ場からでっかい魚をおけにのせて町を行く風景はちょっと他の地方ではみられない」と紹介。
昭和29年、旧坊津町の久志漁協水揚げ場。「久志-今岳-秋目の沿岸漁業はことし七月から突然不漁となり、地引、ボラ、定置各網はほとんど漁獲皆無という状況で、生活力の底浅い零細漁民は危機にひんしている」と当時、報じている。
昭和49年、旧坊津町坊地区。「坊津町は海岸に沿って東西に長い町。そこに坊、泊、久志、今岳、秋目と集落が点在し、端から端までは車で小一時間かかるという地形で、購買力が分散するし、中心となる商店街も形成されにくい」と当時の紙面。
昭和35年、旧坊津町。「港の船はマグロ取りに出かけ、通りには男性の姿が少ない。ほとんどが忙しそうに上り下りする女性“かんめ”ばかり。日本三津の一つと、全国でも指折り数えられた貿易港も、うらさびた一漁村でしかない」と伝えている。
昭和43年11月、旧大浦町。「大浦町は亀ヶ丘に町営放牧場をつくり、四十頭の牛を放牧したが、このほど下牧を行ったところ放牧された牛は、いずれも見事にふとっており初の放牧事業は成功をおさめた。」と当時の紙面で報じている。
昭和49年、旧笠沙町小浦の商店通り。「商店街にしばらく待ち構えてみても、日中は買い物客がほとんど通らない。商店経営が容易でないことを如実に物語る。活路を求めるとすれば釣り観光の振興と、大浦干拓への企業誘致か」と過疎問題を取り上げている。
昭和46年、旧笠沙町片浦の石だたみ。「笠沙路は石だたみと石垣の美しい町だ。平地の少ない山肌を切り開き、石垣を積んで段々畑みたいな集落を形造っている。石は椎木部落の産。赤味を帯び、しっとりとした落ち着きをみせている」と紹介している。
昭和45年12月末、旧加世田市本通り。「加世田市名物の“としの市”は、南薩各地から買い物客およそ二万人がつめかけ身動きできぬ混雑ぶり。農村景気の好調と出かせぎ者からの送金でホクホクの買い物客はサイフのひももゆるみっ放し」と取り上げている。
昭和39年、旧加世田市の目抜き通り。この年、市制施行10周年を迎え、「この十年間恵まれない財政の中で、教育施設の充実、ト畜場の建設、干拓事業の推進など、“新田園都市”建設の地固めをすすめてきた」と当時の紙面で報じている。
昭和51年、旧伊集院町、窪田酒造の赤レンガ造りの傾く煙突。高さ約25メートルで「日置郡で最も高い煙突として君臨」してきたが、「8年ほど前から傾き始めた」。その後台風で倒壊、名物煙突は姿を消した。
昭和36年、旧市来町の映画館「市来東映」。「客の入りが悪く経営が苦しくなったので、月ぎめ100円の会員券を発行し、月に何本でも見られる『会員制』を採用」。「最後の切り札」と地方映画館の苦しい経営を取り上げている。
旧知覧町の旧特攻基地に昭和49年5月、建立された特攻銅像。写真は昭和50年8月の様子で「この地から飛びたち散華した特攻隊員は千十五柱。参拝客たちは若い犠牲者たちのめい福を祈り、戦争のむなしさをいまさらのごとく痛感している」。
昭和47年、旧川辺町の旧川辺駅。写真は知覧線廃止から7年たった駅の様子。「阿多駅を起点にした知覧線は延長十六キロ、昭和二年六月、薩南中央鉄道として開通いらい四十年にわたり、地域の産業、文化の発展に大きな役割りを果たしてきた」
昭和40年の知覧駅。阿多-知覧16キロを結ぶ南薩中央鉄道知覧線は昭和2年開通、同40年に経営難で廃線。当時の紙面で「地域の産業、文化、経済の開発に大きな役割を果たしてきただけに、住民にショックを与えた」と存続運動の盛り上がりを伝えている。
昭和44年、枕崎市の観光案内所。「枕崎市観光協会では外来のお客さんに役立ててもらおう-と駅前に市内案内図と観光案内所を設けた。」と当時の紙面で紹介している。
昭和43年、枕崎市の鹿篭金山。「通産省が四十三年度から始める金開発基礎調査に南薩地区が内定しているが、江戸時代から三百年の歴史をもつ鹿篭金山も古い廃鉱の底に“夢よもう一度”の期待をかけて探鉱の発破音をひびかせている」と当時の紙面。
昭和37年、旧開聞町。「開聞町川上迫水源地に町営のソウメン流し場ができた。町民のいこいの地域にしようというねらい。川上迫水源地は開聞町上水道用水を一手に引き受けているほかあふれ出る水が清い流れをつくり、その冷たさも格別」と伝えている。
昭和44年、旧金峰町の阿多駅。大正3年伊集院-加世田間が開通、その支線として昭和2年阿多-川辺、同5年知覧まで開通した。その後、知覧線は昭和40年に赤字経営で廃線。「支線を失った阿多駅は、ススキがゆらぎ、世の盛衰をまざまざとみせつけている」と当時の紙面。
昭和25年、当時加世田町の町立図書館。「新しい図書館法が制定され、これまで軍の学術研究、資料の保存収集の施設だった図書館が、住民の教養とリクリエーションに役立つ施設に跳躍することになった。加世田町立図書館は加世田幼稚園内に併設している。」
昭和45年、旧加世田市の南薩線加世田駅。「駅というより停車場といったほうがぴったりする加世田駅だが、ここでも大きな駅同様、南薩各地の方言が聞かれるし、懐かしき人に出会うこともある」と紙面で紹介。南薩線は昭和59年3月に廃止され、70年の幕を下ろした。
竹垣
消え行くかつぎ屋
伊作商店街
江口海岸
マグロ船
生まれる変わる商店街
水車小屋
出漁の準備
全木造の観光橋
完全舗装完成
ズラリ黒マグロ
手蓑峠
アメリカ部落のオートバイ群
蟹が地獄鉄橋
整然と下校
2キロの繁華街
薩南の小京都
番所鼻公園
稚アユとり
山川港
鰻池
天然露天風呂
町を行くかんめ姿
久志漁協水揚げ場
坊地区中心街
坊海岸とかんめ
牛の放牧
小浦の商店通り
片浦石だたみ
としの市
加世田の目抜き通り
ヒヤヒヤ”斜塔”
市来東映
特攻銅像
旧川辺駅
知覧駅
観光案内所開設
鹿篭金山
ソーメン流し
阿多駅
加世田町立図書館
加世田駅