風景・街並み(種子・屋久・奄美)

昭和39年10月、西之表市の西町三差路の風景。南日本交通診断として新聞社が県警などと共催し、西之表市街地の交通問題を特集している。「主要道路の道幅がわずか4メートルで、バスや大型トラックが行き交い、通勤時は相当な混雑。早急な拡幅と、大型車両の一方通行などの規制が必要」と書いている。
昭和56年11月、西之表市の鴨女町通り。当時の紙面では「市街地南部の商業地として発展。商工業者が結束して鴨女町通り会をつくり、街づくりに協力し合っている。合同売り出しや歩行者天国の実現なども計画している」と紹介している。
昭和49年7月、大型ホテル建設にゆれる上中地区の商店街。“ロケットの町”で観光振興をはかるが、紙面では「既存業者の懸念の声もある。一方で、種子島-屋久-山川の三角航路の活用促進や道幅の狭い上中地区のバイパス建設など課題も多い」などと報じている。
昭和47年9月、南種子町が建立した前之浜の「ドラムエルタン号漂着之碑」。紙面は「明治27年に座礁した英国帆船を救助した美談をたたえ、町は前之浜整備事業の一環として記念碑を建立。日英親善と新しい観光の名所に-」と伝えている。
昭和45年7月、馬毛島のトビウオ小屋。紙面によると「船だまりの近くに建つカヤぶきの小屋が並ぶ。最近まで利用されていたトビウオ漁のための漁師小屋。漁師たちは5月のシーズンになると網や食糧などをもって渡り、泊まり込みで漁に励んだ。数年前から船が大型高速化して小屋を使う人も減り、昔の名残をとどめるだけ」と伝えている。
昭和57年5月、宮之浦川で夏の風物詩「流れ船」始まる。紙面では「八重岳おろしに涼をとりながら、川下りを楽しむ流れ船は宮之浦川、安房川で行われる。まだ肌寒い中いち早く参加した観光客らは、ビール片手に夏の宵(よい)の風情を味わっていた」と紹介している。
昭和33年6月、口永良部島では牛が大事なトラック役。当時の紙面は「幅2メートル程の細い道ばかりで、オート三輪はもとより、大八車も通行できない。牛の背だけが唯一の輸送機関になっている。島の畑は近いところで30分、1時間や2時間はザラ。牛400頭と馬60頭余りが全戸の足として活躍している」と紹介する。
昭和37年6月、屋久杉搬出用に使われる営林署の森林軌道。紙面は「屋久の山は深い。安房から小杉谷まで15キロ、トロリーにお世話になった。のぼりは機関車が引っ張るが、下りはブレーキだけが頼り。小杉谷に住む中学生の通学用に作られたものだが、安房中小杉谷分校ができ通学には使われなくなった」と伝えている。
昭和49年6月、昔ながらの店舗が多い宮之浦の商店街。紙面によると「観光立島が行政の柱となり、それまでの島の需要中心の商売から、登山客や観光客をターゲットにする商売も考えなくてはならない。商店街としても課題として『お客に買っていただく』という商売意識に欠けており、売り上げ増のために意識改革も必要」などと伝えている。
昭和45年9月、ガジュマル茂る町道は一湊川の支流跡。紙面では「雨のたびにあふれる一湊川を改修し、町の中を流れていた支流に水を流さないようにした。4年前に工事を終え、支流の河川跡には盛り土して道路にした。ガジュマルの木陰で子どもたちの格好の遊び場になり、観光客も隠れた名所に足を止める」と紹介されている。
昭和50年6月27日、保存求める声が出ている安房つり橋。当時の紙面では「安房川にかかるつり橋は両端の橋脚からワイヤーでつるし、本体は木材を使ってある。これが白アリ被害にあって、余命1年ばかりと町では見ている。地元では『バイパス橋ができ交通の主役は譲っているが、生活道としても利用され、また船の係留も含めて安房の景観に欠かせない』といった声があがり、保存運動が起こっている」と報じている。
昭和45年8月、県道屋久島循環線にある珍しい名前のバス停留所「焼酎川」。紙面では「あまりにも小さな川が多く、それにかける橋の名前に地名だけでは足らなくなって、近所に住む人の名前などもつけたりした。焼酎川は川の下流でヤミ焼酎を造っていたことにちなみ、にわかに名付けられたらしい。観光にも一役買って、『養老の滝・屋久島版』として関心を呼んでいる」と紹介している。
昭和30年11月、硫黄島(三島村)の天然温泉。当時の紙面は「同島には穴之浜温泉をはじめ開門、屋久などを望む3つの天然温泉がある」と伝えている。
昭和32年7月、トビウオ加工をする中之島の島民。当時の紙面は「ことしは4、5年ぶりのトビウオの豊漁。去る十日までに中之島で10万尾、宝島で8万尾、各島合計30万尾を水揚げしたという」と報じている
昭和45年8月、横当島の“ヨコアテ”温泉。当時の紙面は「北側入り江にあり、地熱で海水が温まった“即席ブロ”。満潮時は海の底に沈んでしまい、干潮には干上がる。その中間でないと利用できない」と伝えている。
昭和37年6月、口之島の西之浜港周辺の人家。「口之島の家は一部をのぞいてササぶき屋根。雨が吹きこんで雨戸が腐るのを防ぐため、ヒサシが重く垂れ下がっている」と紙面は伝えている。
昭和37年3月、瀬戸内町が所得倍増を目指して力を入れるパイン農園。紙面は「バナナ、パインの生産に最適地とされ、それぞれの作付け面積が増えている。特にパインは台風や干ばつに強いため有望。作付け面積70ヘクタールで11万8000キロ、735万円を稼いだ。大島パイン会社の製缶工場も建って加工を始めており、さらに山頂まで切り開いたパインの大農園がつくられ、作付け600ヘクタール、3億円以上の収益をあげる計画が進められている」と伝える。
昭和39年1月15日、奄美の新民謡「島育ち」のブームで名瀬市椀入り口赤崎に記念碑建立。当時の紙面では「『島育ち』は昭和14年、有川邦彦作詞・三界稔作曲で、奄美の地元で愛唱されてきた。37年、歌手田端義夫がレコード化して全国に知られるようになった。関係者らが完成を祝い、近々除幕式を行う予定」と報じている。
昭和27年10月、翌年12月に本土復帰が決まった奄美大島、旧名瀬市街地の全景。当時の紙面は「戦災復興は進み、すでに人口は戦前を上回る3万3000人。市街地にはモダンな鉄筋造りの郵便局や図書館なども整備された。また映画館やダンスホール、飲食店などもにぎわいをみせているという。一方、島民の生活の糧のひとつ、紬(つむぎ)業は最近、輸出手続きが緩和され、活発になってきた」と伝えている。
昭和31年12月、奄美大島で貧困家庭の実態調査。紙面によると「奄美大島で生活保護を受けているのは5600世帯にのぼっている。大島支庁の調査では、復帰翌年の昭和29年には3900世帯だったものが、その後増え続け、人口比で全住民の8%にも達した。名瀬市内でも旧三方村などで生活保護世帯が多くなっており、貧困家庭の実態を再調査する」と伝えている。
昭和46年4月30日、海岸でソテツの実「ナリ」を干す風景。紙面では「ナリみその原料にするほか、観光みやげの鈴などに加工される。名瀬市の海岸ではソテツの実を干している風景が見られる。今や、ソテツ粉のカユをすすり飢えをしのいだ哀話はもう遠い過去にすぎない」と報じている。
昭和45年5月、今も残る身分意識のあらわれ、「ゆかりちゅ」の呼称。紙面によると「ゆかりとは縁。『ゆかりちゅ』とはゆかりのある人、つまり身分上の上流階級の人々に対する呼び方だ。地元の人々の中には『口にこそ出さないが、意識として残っている』と指摘がある。旧龍郷村秋名には、いかめしい石塀に囲まれた『ゆかりちゅ』の屋敷跡も残る」と紹介している。
昭和49年5月、ノロの祭りが行われるアシャゲとトネヤ。紙面によると「瀬戸内の畑作はキビ作を主体としてきたが、製糖工場の廃止で大打撃を受けた。集落も高齢者ばかりで木慈の22戸のうち、20戸が60歳以上。人口は減少の一途をたどっている。かつて日本の原郷とたたえられた加計呂麻の神事や祭祀(さいし)なども、徐々に崩壊しつつある」と紹介している。
昭和42年3月、名瀬港から続々と積み出されるソテツの大木。当時の紙面は「観賞用として本土で人気を集めるソテツが、12月ごろから3月にかけて出荷される。貨客船が横付けされるようになった港の荷置き場は、足の踏み場もない。出荷が盛んになり、東京・大阪へ取り引きが広がる一方、奄美の山々ではいたる所で掘り取られ、乱雑に採掘された場所では枯死するものも多い」と報じている。
昭和56年7月、美しい自然とともに加計呂麻島に残るカヤブキ屋根の民家。紙面によると「海の特攻隊『震洋』の基地があった呑之浦だが、今や波穏やかな大島海峡には漁船が行き交う程度で、戦時の悲劇は格納壕(ごう)などでしのぶほかない。島の人口は2600人余り、世帯数で1112戸。昔ながらのサンゴの石垣も次第にコンクリートに変わりつつあり、ソテツに囲まれたカヤブキの家も後に住む人がなく、朽ちていく数も少なくない」と伝えている。
昭和61年12月、太平洋と東シナ海を一望する景勝地、龍郷町加世間(かしけん)の山手からの景観。紙面によると「赤尾木湾が陸に入り込み、くびれたように見渡せる。笠利方面の丘陵があたかも奄美の『ダイヤモンドヘッド』のよう。米統治時代には軍政官が『世界的な景観』と言ったのもうなずける」などと紹介している。
昭和45年3月、サンゴづくりの石垣に囲まれた家々が並ぶ大和村今里。紙面によると「100戸余りある集落はまるで城壁のように海岸線にそって続いた石垣のなかにすっぽりと隠れている。軒をしのぐほどサンゴの石垣を高くしたのは、東シナ海の荒波のしぶきと、絶えず襲ってくる台風の暴風を避けるためである。集落を彩るサンゴの石垣は奄美の美観と人々の営みを伝える」と紹介する。
昭和45年3月、龍郷村(当時)円集落の漁民に伝わる追い込み漁の様子。紙面では「追い込み漁は沖縄・糸満の漁師が教えたもの。独特の丸木を組み合わせて造った小舟“サバニ”や奄美独特の“イタツケ”舟などに分乗して、サンゴ礁の海にこぎ出す。石のおもりで海底をたたき、袋網の中へ魚を追い込む。水しぶきが乱舞し、太古以来の海の生命が吹き出すような勇壮な光景だ」などと紹介している。
昭和54年9月、龍郷町屋入の湾奥部に設けられた縄文垣(じょうもんがき)。当時の紙面によると「大小の石を高さ60センチ、長さ100メートル、アーチダム上に積み上げた縄文垣。満潮時は海中に没し、干潮時には姿をあらわして潮だまりをつくるいわば定置網の元祖といったところ。今ではここにしか残されておらず、素朴な漁法に先祖の知恵をしのばせる」などと伝えている。
昭和53年6月、奄美大島北東端のあやまる岬に広がるソテツ樹林。紙面によると「奄美十景のひとつに数えられる雄大な景観。海岸線にはソテツの自生林が広がり、左に笠利岬、眼前に太平洋と東シナ海が迫る。波打ち際では潮騒(しおさい)が心地よい」などと伝えている。
昭和41年7月21日、豊かな自然の残る住用のマングローブ自生地。紙面によると「住用村には奄美一の河川、住用川をはじめ役勝川、川内川、金久田川、山間川と流れ、海近くにひらけた平地部をヘビのようにうねりながら海に注いでいる。湖水のように静かな内海と熱帯特有のマングローブ林はすばらしい観光資源。アユやカニ、イセエビなどの水産資源にも恵まれる」と伝えている。
昭和45年3月、龍郷村(当時)の赤尾木海岸で本土より一足早く日光浴を楽しむ観光客ら。紙面では「強い日ざしを肌いっぱい受けて、若者たちは日光浴。サンゴ礁の海はエメラルドグリーン、純白の浜辺に波がひた寄せる。アダンのそばで早くも水着で日光浴を楽しむ若者の姿が見られた」などと紹介する。
昭和44年11月28日、「南島雑話」を書いた薩摩藩士・名越左源太の住んだ屋敷。紙面によると「有名な“お由羅騒動”に連座して流刑された名越左源太は、奄美・小宿に住んでいた漢方医・藤由起(とゆき)の屋敷に5年も暮らした。現在の小宿小学校に隣接する場所で、広い庭には美しい竹垣やリュウキュウ松の古木が当時を忍ばせる。家屋は老朽化したため改築されたが、名越の書などが保存されている」と紹介している。
昭和48年6月、名瀬市中心街の渋滞は深刻で、駐車場にできないかと目をつけられている永田川。当時の紙面では「市中心の商店街で一番困っているのは青空駐車。観光客もびっくりの自動車の多さで、前年の乗用車伸び率は37%で全国の伸び率を大きく上回った。一帯は狭い土地に家屋が建て込んでおり、混雑解消と駐車場確保のために頭を痛めている」などと報じている。
昭和33年6月、かやぶき屋根と井戸がある亀津の農家。当時の紙面では「飲料水には町民の多くが困っており、小川や泉、地下水に頼っている。2キロくらい水くみに出かけることも珍しくないという。この春、亀津町と東天城村が合併して徳之島町として発足。氷倉庫建設や電源開発も急がれるが、水道整備など新町政に課題は多い」と報じている。
昭和48年11月、天城町平土野の商店街。当時の紙面では「天城町商工会は青年部を中心に活動し、8月には同町最大のまつりを開催、約6000人の人出があった。徳之島空港をひかえているだけに観光客の定着を狙うが、平土野港に定期客船が寄港せず、大きなネックになっている。今後、中央通りにはアーケードを取り付ける計画」などと紹介する。
昭和42年4月7日、「南海の別天地」徳之島のかやぶき屋根の集落・母間(ぼま)。紙面では「空港から山(さん)までの道すがら、ソテツやガジュマル、曲がりくねったアダンなどの亜熱帯の木々が生い茂る。島の東、母間海岸に広がる集落には昔ながらのかやぶき屋根の家々が並ぶ。そのほか風葬跡(秋利神川)、3月末から海水浴のできる山(さん)海岸、絶景の金見崎など見所は多い」などと紹介している。
昭和36年2月22日、脚光を浴びる奄美産パイナップルの缶詰工場。紙面では「奄美の中でも徳之島はパイナップルの産地として収量も増えている。オートメーション化された近代工場も、甘酸っぱい香りに満たされる。ただ近年、お土産用の青果の値が高く、缶詰用の原料集荷が思うようにいかないとの声も聞く」などと伝えている。
昭和36年10月31日、喜界島はいまサワラ釣りのシーズン。当時の紙面は「くり舟に2本のサオをつけ、その先にエサをつけてこぐとサワラがくいつくという。子供の背丈ほどもあるサワラは、重さも5キロ以上。刺身もおいしく、島の食卓をにぎわしている」と紹介する。
昭和57年7月22日、豊かな自然の残る喜界島・荒木遊歩道のガジュマル林。紙面によると「美しい海と照りつける太陽、うっそうと生い茂る亜熱帯樹林はいかにも南国。島の南西に広がる荒木海岸国定公園には、手つかずの自然が残っている。島にはまた平家落人の伝説、俊寛の言い伝えなども数々秘められており、いっそうの旅情をかき立てる」と伝えている。
昭和30年3月12日、定期船が接岸できず、ハシケで荷下ろしや乗・下船をする喜界島の湾港。当時の紙面では「鹿児島と結ぶ船の汽笛が響くと、港は時ならぬにぎわいを見せる。サンゴ礁の沖合にイカリを降ろした船まで、客も荷物もハシケで送り迎えられる。岸壁には建築資材が雑然と積まれ、港は黒糖やトマトの出荷にいそがしい。出稼ぎの若者を見送る家族の姿が印象に残る出船風景」と紹介していた。
昭和41年10月、サンゴ礁の破片を積み上げた民家の石垣。紙面によると「映画『島育ち』のロケ地にも選ばれた喜界島。青い海原とサンゴ礁、白浜が広がり、アダンやリュウゼツランの木々がいろどり、民家にはサンゴの石垣が続く。亜熱帯ムードに富んだ美しい島で観光資源として魅力十分」などと伝えている。
昭和38年6月9日、喜界町の湾港に接岸したくれない丸。当時の紙面では「島の宿願は湾(わん)と早町(そうまち)の港建設。湾港には復興事業で500トン程度の接岸桟橋が整備され、鹿児島航路の三幸丸や名瀬航路のくれない丸が接岸できるようになり、喜ばれている。湾・早町の両港の拡張工事が計画されているが、今後大型船の就航実現に期待をよせられている」などと伝えている。
昭和31年10月22日、沖永良部の知名町営の農園に実ったパイナップル。紙面によると「復帰前に沖縄から苗600本を輸入し植え付け。昨年は500個余り果実をつけ、また1000本を植え付けた。パインの缶詰工場も建設予定があり、前途は洋々。将来的に50町歩を目指す」などと伝えていた。
昭和56年4月、東シナ海の荒波が打ち寄せる田皆岬の景観。紙面によると「沖永良部の西岸は東シナ海の白波が打ち寄せ、怒濤(どとう)が岩に砕ける壮観な景色が見られる。中でも南西部の田皆岬は断がい絶壁は奄美十景に数えられる場所。紺碧(こんぺき)海原に垂直40メートルの切り立った崖。眼下の砕ける波を見ていると、吸い込まれそうな気がする」などと紹介していた。
昭和53年5月5日、ゴールデンウィークから本格的な観光シーズンに入った与論島。紙面では「海辺では若いビキニ姿があふれ、海水浴場周辺の店もいっせいに店開き。百合ケ浜などには脱衣施設がないため、宿で着替えて茶花などの町を水着姿のままでかっぽする観光客が多い」と報じている。
昭和45年11月、徳之島の中央部にそびえる丹発山(天城町)に見られる、根が屏風(びょうぶ)のように地面に張り出した“板根”。紙面では「学術上も貴重と注目を集めているが、近年盗掘・伐採が相次いでいる。天城町は『早急に天然記念物に指定を』と保護を訴える。板根ができるのは主にオキナワウラジロカシの大木。大きいもので高さ2メートル、幅3メートルもある」などと伝えている。
昭和45年8月3日、和泊港近くの奥川にかかる南洲橋。紙面によると「幕末に西郷隆盛が配流の苦しみをなめた、南洲たっ居の地と結ぶ橋ということで、南洲橋と名付けられたという。大正12年に完工、島内産の石灰岩で造られためがね橋で、このような立派な橋は大島郡内にほかに例がない。時代の移り変わりで交通量が増え、10年前に拡幅した」などと紹介している。
昭和40年4月、種子島酪農協同組合連合会が建設を急ぐミルクプラント工場。当時の紙面は「4月20日の操業開始をひかえ、最後の仕上げを急いでいる。種子島には約1500頭の乳牛がおり、1市2町の農協が共同出資して経営。学校給食用に5月から配給する」と伝えている。
昭和44年10月、安房の如竹神社。紙面によると「400年前に活躍した、泊如竹は京都本能寺や鹿児島大隆寺に学んだ高僧。屋久島の山林開発や民政にも手腕は高く評価されている。島民は命日7月25日には祭りを行い如竹踊りを奉納しており、昭和36年に如竹の墓が県文化財の史跡指定された」と伝える。
昭和50年12月、自然休養林「白谷雲水峡」入り口に整備された休憩舎。紙面は「白谷雲水峡は昭和46年に自然林、屋久杉の保全と大自然の魅力を味わってもらおうと設けられた。年々登山客が訪れており、来春の登山シーズンに備え、標高640メートルの白谷川橋のたもとに休憩舎を整備した」と報じている。
昭和47年2月17日、3月いっぱいで閉校する栗生小学校城下分校。紙面では「新学期から閉校し、在校生24人のうち6人が本校の栗生小に、18人が隣の八幡小へ編入される。児童らは遠距離通学となるため、バスの定期券を無償で渡す。分校跡は公民館として利用することが決まり、記念碑の建立を計画している」と報じている。
昭和39年9月、操業中止した硫黄島の鉱業所設備。紙面は「近代的な設備を誇った硫黄鉱山がついに閉山に追い込まれている。村の財源の3分の2を同島が支えていただけに村が受ける打撃は深刻」と報じている。
昭和41年1月、建設が進む宝島の前篭港。紙面によると「『10年後には船便、飛行便の改善で、朝鹿児島を出て、中之島、宝島で釣りや温泉を楽しむ1泊2日旅行ができるようになる』というビジョンが十島村役場でまとまり、“楽しいビジョン”に向けた計画が進んでいる」と伝えている。
昭和42年、諏訪之瀬島の突堤。当時の紙面は「定期船が入港するたびにおとなたちがハシケを繰り出し荷役作業をしているが、ハシケの発着場一帯は瀬波がうずまき危険。島民たちは早く延長して定期船が横着けできるようにと訴えている」と報
昭和36年、臥蛇島の分教場と先生たち。紙面によると、臥蛇島は13戸、総人口49人。「全戸数のうちで夫婦そろっているのは3戸、あとはほとんどが母子家庭。したがって、学校の先生に対する信頼はいじらしいほど」と伝えている。
昭和37年9月、旧名瀬市根瀬部の小・中学校との統合に反対し、旧笠利町喜瀬小学校の存続を訴え住民が建設したカヤブキ私設学校の様子。当時の紙面によると「小学生131人、中学生57人が私設学校側に出校しており、本校(統合する知根小・小宿中学校)より多い。校長も先生もいないが、夏休み中の反省会や自習をした。分校設置案までこぎつけたが、敷地の問題などあり依然、問題解決の見通しがついていない」と伝えている。
昭和38年2月、復帰前まで名瀬に通じる車道がなかった大和村の恩勝に3年前道路が開通。紙面では「陸の孤島から解放され、便利になった。村では林野開発を経済振興の重点策としており、また紅茶の生産にも力を入れて村直営農園を造成。紅茶工場もできている」などと紹介されていた。
昭和38年8月、急速ろ過法で浄水する名瀬の浄水場。紙面によると「奄美大島は70年ぶりという干ばつに見舞われたが、復興事業で整備された浄水場のおかげで名瀬市民は救われている。自然の落差を生かした、1日80-150メートルの流速でろ過している。2万5000人の給水人口というが、これも上限に近付いており、市水道課は第2水源地を探さねばならなくなっている」と伝えている。
昭和39年8月26日、相次ぐ台風の影響で海上交通がストップしていた名瀬港に定期船3隻が相次ぎ入港。紙面は「25日朝から八坂丸、高千穂丸、興南丸がいずれも野菜や食料品、お客を満載して接岸。約1000人の客と貨物で桟橋はあふれた。高千穂丸と興南丸は新たに260人の乗船客をのせて南の離島へと、また八坂丸は足止めをくっていた帰省客など400人余りをのせて、鹿児島に折り返し出港した」と報じていた。
昭和29年6月、米軍が建設した旧三方村大熊(現在の奄美市名瀬)の教会堂。紙面によると「米占領下8年間に大島各地に建設した教会堂がひときわ美しい置き土産となっている。平和のよみがえった奄美のシンボルでもある。現在では全島で約3000人の信徒がおり、6人の米国人神父が20カ所の各協会をかけもち、布教につとめている」と伝えている。
昭和29年12月24日、前年日本復帰を果たした奄美でハンセン病療養所の奄美和光園は「忘れられたまま」。当時の紙面によると「戦前にライ予防法のもと設立された同園は、296人の入園者がおり、今もバラック病棟で暮らす。復帰を果たし、関係者は設備改善に期待をよせていたが、28年度1800万円。29年度にはようやく5000万円計上され、宿舎改修や女子寮、発電所建設など進められた。しかし、郡内には重病患者が放置されており、最低100床の増設をはじめ消毒室や風呂場など整備が必要」と伝えていた。
昭和30年12月2日、奄美大島南部の漁業基地として注目される古仁屋港。紙面では「かつては日本軍の要港で、本土防衛の前線基地だった古仁屋は今、瀬戸内4町村の中心地として、また漁業基地として重要視されている。港湾建設も急ピッチで、また大島海峡をむすぶ船便が十数隻、買い出し客らをのせて行き来する」と報じている。
昭和30年4月24日、水産電化へ向けて、魚群探知機など設備のバッテリー充電用施設を瀬戸内漁協に整備した。紙面によると「古仁屋港の漁業電化予算は132万円。充電所は一度に50台のバッテリーを充電できる。科学的に著しく進歩した本土水産業とは比べようもなかったが、集魚灯や魚群探知機などの普及にも効果が期待でき、大島水産業者にとって大きな味方となる」と伝えている。
昭和32年3月24日、旧名瀬市浦上町に移転した鹿県農事試験場大島分場。紙面には「奄美郡内の農産試験研究の中枢として整備強化のため、予算8300万円をかけて建設。本館2棟のほか、畜舎7棟、収納舎・倉庫1棟や公舎4棟を2年4カ月かけて完工し、20日落成式が行われた」と紹介している。
昭和53年11月、笠利町(奄美市)用安の製糖工場でサトウキビを圧搾(さく)機にかける様子。奄美大島復帰25年で開催した本紙移動編集局の紙面では「サトウキビ作と精糖は奄美の『生命産業』である。笠利町では農業生産の5割以上の5億円をかせいでいる。龍郷町など大島北部各地では、新品種導入や機械省力化など経営規模の拡大に力を入れている」などと伝えている。
昭和58年12月25日、旧名瀬市おがみ山に建つ復帰記念碑前で30年記念式典が行われる。紙面によると「復帰30年を迎え、奄美では地区労主催の記念行事とシンポジウムが行われるほかは、市町村単位の行事は予定されていない。奄美群島振興開発特別措置法(奄振)の期限切れを前に、市町村長・議長らが陳情で軒並み多忙なため」などと伝えている。
昭和53年5月29日、定期旅客船が早朝や夜間に発着する名瀬新港は周辺の照明が不十分。紙面では「読者の投稿をもとに、名瀬新港の周辺を取材。照明不足や道路案内も十分でないために、観光的にも、また防犯上も問題がある。県大島支庁では今後、駐車場など中心に4基の照明機を新設する計画だ」と報じている。
昭和54年1月26日、名瀬市(当時)にハ虫類専門の「奄美スネークセンター」が開園。当時の紙面では「世界有数の猛毒ヘビ、ニシキヘビなどの大型ヘビ、イグアナなどのトカゲ類、50種を飼育し、ハブセンターや大島紬センターに次ぐ新たな観光スポットとして脚光を浴びている。マニアが6年がかりでつくった施設で、ハブは当然のこと、キングコブラ、インドニシキヘビ、オオミズドラゴン、さらにはゾウガメなど九州でははかに例を見ない展示」と紹介していた。
昭和43年11月27日、飛行機から新婚客や団体客らが続々降りたつ奄美空港。紙面によると「奄美の観光ブームが高まりを見せており、正月のホテルは早くも満杯。1日3往復するYS11機も新婚さんや団体客で連日満席の盛況ぶりだ。関東・関西などからの予約が名瀬や徳之島などのホテル、旅館に殺到している」と報じている。
昭和30年2月、サトウキビ運び込まれた伊仙町犬田布の製糖工場。当時の紙面は「徳之島は精糖の近代化が進み、天城村(当時)平土野と伊仙村(当時)犬田布の50トン工場が設立。両工場では搾汁(さくじゅう)から精糖まで機械化し、日産1万5000斤(1斤は600グラム相当)を生産する。来年度までに伊仙にもう一カ所50トン規模の工場が建設される見込み」と報じている。
昭和45年8月14日、徳之島空港に広がるテンニンギクは“特攻花”と呼ばれ、今年も黄色の花を咲かせている。紙面では「日本最南端の特攻基地だった徳之島空港(旧陸軍浅間飛行場)に特攻花が咲き続け、南島の空に散った特攻隊員の悲しい思い出をよみがえらせている。天城町ではこの地に戦没者慰霊塔を建立する計画をたて、全国に協力を呼び掛ける準備をしている」と伝えている。
昭和36年2月22日、脚光を浴びる奄美産パイナップルの缶詰工場。紙面では「奄美の中でも徳之島はパイナップルの産地として収量も増えている。オートメーション化された近代工場も、甘酸っぱい香りに満たされる。ただ近年、お土産用の青果の値が高く、缶詰用の原料集荷が思うようにいかないとの声も聞く」などと伝えている。
昭和39年12月、徳之島伊仙町でサトウキビ収穫が盛んになり、製糖工場も活気づいている。当時の紙面では「一斉に操業をはじめ、煙突からは久しぶりに景気のよい煙をはきだしている。キビの出荷は順調で、昼夜ぶっとおしのフル運転でも処理できないくらい。キビどころ奄美の歳末風景だ」などと伝えている。
昭和32年5月9日、沖永良部島の奄美興発和泊事業所が黒糖5000タルを生産。当時の紙面では「奄美群島最大の製糖施設で、和泊の製糖工場は1億円を投じて建坪350坪、100トン規模の施設を完工した。今期は3月初旬から操業し、5000タルの実績をあげ、5月1日に操業終了した」と報じている。
昭和54年5月9日、ハシケにさよなら。供利港の整備事業で7000トン級の船が接岸できるバースが完成、接岸式が行われた。紙面によると「離島苦を象徴するハシケ渡しで不便をかこっていた与論島。茶花港に2000トン級のバースがあったが、このたび供利港にバースが完成し、大型化した定期船も接岸できるようになった。定期船接岸は島民の夢だった」などと伝えている。
昭和57年6月5日、奄美観光で人気を集めていた徳之島ニューオータニ・ホテルが閉鎖。当時の紙面では「沖縄の観光攻勢でこのところ地盤沈下気味、新婚旅行ブームも去り昭和49年の7万人超をピークに観光客数が下降し、昨年は5万人に。今年も大幅な減少が続いているという。加えて経営難の同ホテルの改革案が労組と決裂し、営業継続が困難になった。地元観光業界は島一番の観光施設閉鎖に揺れている」と伝えている。
昭和34年8月1日、完成し一番機の飛来を待つ喜界飛行場。当時の紙面によると「1日開設予定だったが、東亜航空の飛行機機材の都合で鹿児島路線開設は今月10日ごろになる見通し。滑走路は長さ1200メートルが1本。不定期便の予定だが、いづれ大島本島への空路開設も期待できる」などと報じていた。
バスでいっぱいの狭い道路/西之表
鴨女道路/西之表
南種子町上中地区の商店街/南種子
前之浜の英国船漂着記念碑/南種子
馬毛島のトビウオ小屋
宮之浦川に流れ船/屋久島
島の唯一の運輸機関は牛/口永良部島
小杉谷の森林軌道/屋久島
宮之浦の商店街/屋久島宮之浦
一湊川の廃川跡/屋久島一湊
保存の声が出ている安房つり橋/屋久島安房
焼酎川のバス停留所/屋久島平野
風流な海中温泉/屋久島平内
硫黄島(三島村)の天然温泉
トビウオ加工する島民/中之島
横当島の”ヨコアテ”温泉
西之浜港周辺の人家/口之島
瀬戸内海峡を臨むパイン農園
奄美に「島育ちの碑」/名瀬
復帰目前にした奄美大島 旧名瀬市中心部の全景
名瀬市近郊に広がる貧しい家並み
ソテツの実を天日干しにする風景
石塀に囲まれた「ゆかりちゅ」の屋敷跡
ノロの祭りが行われるアシャゲ/加計呂麻
乱堀続くソテツ、本土向け積み出し/名瀬港
加計呂麻の昔ながらの民家/瀬戸内町
奄美のダイヤモンドヘッド/龍郷町
台風から民家を守るサンゴづくりの石垣
勇壮な追い込み漁/龍郷町
定置網の先祖「縄文垣」/龍郷町
あやまる岬に広がるソテツ樹林/笠利
日本一のマングローブ自生地/住用
赤生木海岸で日光浴を楽しむ観光客/龍郷
名越左源太流刑の地/名瀬
市街地の渋滞と駐車場化を考えられる永田川/名瀬
水道整備に遅れ、地下水に頼る亀津の民家/徳之島町
青年部を中心に観光客の定着を図る中心商店街/天城町
かやぶき屋根が多く残る母間海岸/徳之島町
バナナの葉かげで勉強するこども/徳之島町
釣り上げたサワラを頭にのせて運ぶ/喜界町
うっそうとした荒木遊歩道のガジュマル林/喜界町
ハシケで定期船の送り迎え/喜界町
サンゴを積み上げた石垣/喜界町
港湾桟橋に接岸したくれない丸/喜界町
パイナップル立派に実る/知名町
東シナ海に突き出す田皆岬の絶壁/沖永良部
与論はもう夏、百合ケ浜に観光客/与論町
丹発山の「板根」/天城町
沖永良部の南州橋/和泊町
種子島酪農協のミルクプラント/西之表
「屋久島聖人」まつる如竹神社/屋久島安房
白谷雲水峡にできた休憩舎/上屋久営林署
4月に歴史閉じる栗生小城下分校/屋久島
操業を中止した鉱業所設備/三島村
建設が進む宝島の前篭港
諏訪之瀬島の突堤
臥蛇島の分教場と先生たち
喜瀬地区民が建てたカヤブキの私設学校/笠利
大和村役場が所在する恩勝
名瀬の浄水場
9日ぶりに定期船でにぎわう名瀬港
「平和のシンボル」大島全島に教会堂20カ所
忘れられた島の春、国立診療所「奄美和光園」
瀬戸内4町村の中心、漁業基地の古仁屋港
集魚用の充電設備が完成/古仁屋港
鹿県農試大島分場が落成/旧名瀬市浦上町
笠利の製糖工場
おがみ山に建つ奄美復帰記念碑/名瀬
「もっと光を」周辺が暗い名瀬新港
わが国有数のハ虫類センター誕生/名瀬
観光ブーム、新婚客が続々降り立つ奄美空港
復帰直後に建設された50トンの製糖工場/伊仙町
”特攻花”が咲き続ける特攻基地跡の徳之島空港
近代設備のパイン缶詰工場/徳之島
活気づくキビ工場/徳之島
黒糖5000タルを生産/和泊町
供利港に接岸バース完成/与論町
幕閉じるニューオオタニ・ホテル/徳之島
一番機乗り入れを待つ喜界飛行場