出来事(昭和51年~60年)

昭和51年6月、末吉町のガス発動機。紙面によると「ノコクズを焼いて発生したガスを燃料とするエンジンで“木炭自動車”と同じ原理。部品がなく修理に困り、おそらく県内最後といわれる一台がついに引退した」と報じている。
昭和53年3月、旧福山町のもろみの仕込み。当時の紙面は「黒い酢がめが田んぼに並ぶ。昼に太陽で暖め、夜の冷気で冷やす、自然の恵みだけで作るこの製法は国内で同町が一カ所」と報じている。
昭和53年4月3日、鹿児島大学歯学部で自分の受験番号を見つけて大喜びの受験生。紙面では「歯学部は今回が初めての試験。受験生が全国から集まったため競争倍率が10.25倍と非常に高く、県外の受験者は鹿児島にいる友人や親類に頼んで発表をみてもらうなど万全の備えをとっていた」と報じている。
昭和53年5月14日午後2時、鹿児島市の県文化センターで大久保甲東100年目の命日に約1500人が集まった記念式典。紙面では「高さ3.6メートルの大久保銅像が舞台中央に飾られ華やかなオープニング。全員が黙とうをささげたあと、甲東の生涯を収めた映画を約30分鑑賞した」と報じている。
昭和53年5月14日、大久保さんにおごじょたちがバラの献花。紙面では「熱烈とまではいかなかったものの、しかし温かい出迎えはあった。同じ維新の巨人でありながら、西郷どんに比べ、いささか人気薄。ときには憎まれもした大久保さん。県文化センターで行われた記念式典は1世紀ぶり”復権”のセレモニーでもあった」と報じている。
昭和53年10月、指宿市の池田湖岸。「指宿市観光協会は池田湖岸で『イッシー無人カメラ観察所』の設置工事を始めた。池田湖を舞台に全国的な話題になっている怪獣『イッシー』のナゾを解き明かす有力な資料として、写真撮影をする」と伝えている。
昭和53年11月3日午前10時、奄美群島日本復帰25周年記念式典が、名瀬市総合体育館で、郡民約500人が出席して開かれた。紙面では「国歌斉唱のあと名瀬市民合唱団が『日本復帰の歌』を合唱。当時の苦難を思い出してか、列席者の間にハンカチで目頭をおさえる光景が見られた」と報じている。
昭和53年12月25日、奄美が日本に復帰し四半世紀を迎えた。県立図書館奄美分館には99.9パーセントを集めた復帰要請の署名録が所蔵される。紙面では「民族的苦難を乗り越えたあの復帰運動は戦後奄美の原点を意味する。復帰運動の中で展開された復帰署名運動は奄美の一致団結ぶりを内外に示し、運動の大きな推進力となった」と報じている。
昭和53年12月25日午前9時、名瀬市(現奄美市)おがみ山公園で「日本復帰をしのぶ会」と奄美地区労評を中心に記念祭が行われた。紙面では「およそ40人が集まり、復帰協議会議長だった故泉芳朗の詩碑の前で復帰運動をしのび、奄美復興への誓いを新たにした」と報じている。
昭和54年、指宿市の池田湖。当時の紙面には「話題の主のイッシー君がついに姿を現した。…タネを明かせば、MBCテレビが放映する新番組のロケの出し物。ビニール製、長さ三メートル」とあり、指宿への観光客は昨秋以降5パーセントの伸びと報じている。
昭和54年11月、県立図書館の“大型引っ越し作戦”が本格化。当時の紙面によると「特別注文の段ボール1万個が山と積み上げられ、職員らは32万冊と言われる蔵書の箱詰め作業にてんてこ舞の毎日。本のあまりの重さに、ギックリ腰になる職員も出るなど、52年ぶりの転居はなかなかハードなようだ」と伝えられている。
昭和54年10月、照国神社前の旧図書館(現県立博物館)から旧鹿児島大学医学部グラウンドに完成した新図書館への転居作業が始まった。紙面によると「職員ら40人が朝から夕方までかかって1万4000冊を運び込んだ。しかしこれは全体のわずか20分の1。職員らは段ボールに張り付けた本の“戸籍簿”に従い、汗だくになって収納していた」という。
昭和54年9月、鹿児島市甲突川ほとりのライオンズ広場で大久保利通像除幕式が行われた。当時の紙面は「西南戦争の“敵役”大久保さんにとっては一世紀たってようやく実現した永遠の里帰り。除幕式には遺族や関係者ら250人が参列し、紅白の幕が落ち黒光りする像が姿を現した瞬間、盛んな拍手。熱心な大久保ファンは『西郷さんと大久保さんは一対。故郷に帰られて対になられましたな』と熱烈祝賀」と伝えている。
昭和55年3月4日、4月から無人化する馬毛島の馬毛島小学校。当時の紙面は「3月現在の住民は13世帯38人だが、このうち馬毛島小・中校の教職員関係が9世帯で、4月から居住者がいなくなることが確実になった。市営の通船『馬毛島丸』も休止する。学校は廃校の措置を取らず、校舎や施設はそのまま残す」と報じている。
昭和55年7月10日、鹿児島市が50万都市になった。当時の紙面は「“誕生”は午後2時の集計。人口50万人を8人超える大台突破が分かると、市役所内に放送が流れ、市民数百人が集まった。くす玉が割られ、垂れ幕が披露されると、期せずして高い拍手が鳴り響いた」と伝えている。
昭和56年10月1日、九州自動車道の栗野-えびの間(13.7キロ)が開通した。写真は当時の栗野インターチェンジの上空写真。紙面は「高速道路が県境を越えた。鹿児島と宮崎を、ガッチリ結ぶ大動脈の誕生だ。のどかな霧島山ろくは、時速80キロの”新風”が吹き渡り、生まれ変わったよう」と報じている。
昭和56年10月29日、九州自動車道の宮崎-都城間(33.6キロ)が開通し、ついに鹿児島市と宮崎市は高速道で直結された。紙面は「移動時間が約1時間50分に大幅短縮され、鹿児島、宮崎両県の経済交流の活発化、観光振興が期待される。宮崎県側の喜びはひときわ大きく、沿道には沿線住民たちが出て、祝賀パレードの車列に盛んに手を振っていた」と報じている。
昭和57年6月、はしけから第三十島丸に積み替えられる諏訪之瀬島の牛。紙面によると「十島村では口之島、中之島、諏訪瀬島、宝島を中心に147戸が821頭の肉用牛を飼養。諏訪之瀬島の切石港が今秋完成し、この光景もみられなくなる」と伝えている。
昭和58年4月1日、県道名瀬-瀬戸内線の国直トンネルが貫通。当時の紙面では「悪路解消のため掘削が進められていた国直トンネルは、全長260メートルで11月から4カ月でスピード貫通した。30日行われた貫通式では、最後に残された国直側出口のダイナマイト発破のスイッチを押した。無事に貫通しバンザイ三唱の後、全員で通り抜けした。昭和59年の工事終了後には、交通スムーズ化が期待される」と報じている。
昭和58年12月10日、奄美空港を起点に群島内4空港を小型機で結ぶ日本エアコミューターが営業運行を開始した。紙面では「第1便となった喜界線の出発に先立ち1番スポットでセレモニー。この日の奄美空港は風もなく、師走とは思えないポカポカ陽気。同日の乗客は、離島行きが113人、奄美行きは137人だった。」と報じている。
昭和58年12月、旧東町獅子島の片側港。当時の紙面には「二十年間小、中学生の通学の足として就航してきた東町獅子島の町営スクールボートが二学期いっぱいでその任務を終えた」とあり、三学期からスクールバスに替えると報じている。
昭和59年7月15日、町政20年を機にパナウル王国として“独立”、与論観光をアピール。当時の紙面では「パナは花、ウルはサンゴ礁意味する。ハイビスカスなどの南洋の植物とエメラルドグリーンのサンゴ礁の海、星砂の白い浜辺をもつ与論を象徴するネーミングだ。年間の観光客数は15万人に迫る勢いで、観光がサトウキビを抜いて島内一の産業になった」と紹介する。
昭和59年11月23日、和泊町に日本一の巨大な石灯ろう完成。当時の紙面では「沖永良部島の港湾ではしけ作業に携わってきた山田三十茂さんが『はしけ時代の苦難を後世に伝えたい』と歴代船頭さん顕彰碑とともに建設した。地元産の大理石を使用し、高さ15.8メートル、総重量は318トンと威風堂々としたもの。ギネスブックには石灯ろうの項目はないが、1984年の同書日本版には日本一の石灯ろう(高さ5.8メートル、重さ43トン)が載っており、高さ重さともはるかに上回る和泊の石灯ろうは日本一に間違いない」などと伝えている。
昭和59年3月、平川動物公園にコアラがやってくると決まり、鹿児島市内のデパート・オモチャ屋では“あやかり商戦”一色に。当時の紙面によると「先べんをつけたのは市内のデパートで、店内にぬいぐるみなどを集めた『コアラランド』を設置。ほかのデパートや市内のオモチャ屋の店頭でもコアラのぬいぐるみが並び、一足早くファンをとりこにしている。ぬいぐるみのほか、ブームを見込んだ新商品も。ダッコちゃん風のクリップ式コアラやワッペン、バッジなどファッションとしても定着を狙う。また、店名をそのものずばり『コアラ』とする喫茶店なども登場しフィーバーぶりはまだ過熱しそう」と報じている。
昭和59年6月1日、鹿児島市の平川動物公園ではコアラ舎の建設が予定通り着々と進む。当時の紙面では「屋外、屋内の二つに飼育舎が分かれているコアラ舎は、屋内は冷暖房完備という。屋内飼育舎は鉄骨平屋建て約600平方メートル。観客通路には紹介コーナー、飼育室が面している。一方、屋外飼育舎は約350平方メートルで金網に覆われたエリアに木が植えられ、コアラの生態が観察できる。工事が進められているのは同公園南側のオーストラリア園。現在進ちょく率は35%で、8月中の完成を目指す」と紹介していた。
昭和59年9月12日、鹿児島交通の動物園線(鹿児島駅前-平川動物公園)に“コアラバス”登場。紙面では「ボディーに緑のユーカリと灰色のコアラをあしらったバスには、『コアラ君とあそぼう』などの文字も入れられている。9月末までに6台導入される予定。歓迎ムードを盛り上げるとともに、子供たちに親しんでもらおうとの狙い。内装も座席の背もたれにコアラの親子のイラストが入れられている」などと報じている。
昭和59年5月、ユーカリを寄贈された大空幼稚園(高山町)の園児たちは、苗木の面倒をみたり、コアラの絵を描いて「会える日」を楽しみにしている。紙面によると「子どもたちはコアラのポスターやぬいぐるみを見ながら、思い思いのクレヨンでコアラを描いている。ユーカリの葉を食べているところ、赤ちゃんコアラをおんぶしているものなど様々。同園ではユーカリの木を園内の花壇に植え、遠足で平川動物園に行く際に葉をプレゼントしようと大切に育てている」と伝えている。
昭和59年9月、コアラパンやコアラまんじゅうが飛ぶような売れ行き。紙面によると「幻となった“4月来鹿”の第1波についで、10月25日の到着を前に第2派のコアラ便乗商戦が花盛りとなっている。キャラクター商品はもとより、コアラパンやコアラまんじゅうが話題を呼び、『コアラ定期預金』まで登場。コアラまんじゅうは平川と同時にコアラがプレゼントされる東京、名古屋のデパートからも『かわいい』と引き合いがきといるという」と伝えている。
昭和59年10月7日、鹿児島市の二つのデパート屋上には、そっくり同じコアラのアドバルーンがゆらり。当時の紙面では「鹿児島市の繁華街でも歓迎商戦が本格化。二つのデパートが約4メートルの大きさのアドバルーンをそろって揚げ、『コアラ君ようこそ鹿児島へ』『ようこそコアラ君かごしまへ』とそっくりの垂れ幕を下げて空中戦。納屋通り商店街はコアラの絵柄入りのショッピング・バッグ2万枚を製作、半分を配布するなどし、歓迎ムードを盛り上げている」と報じていた。
昭和59年10月、平川動物公園はコアラの歓迎式典に向け準備に追われる。紙面によると「明日に迫ったコアラ入園に備え、表玄関には歓迎看板を設置するなどセレモニー会場の飾り付けやコアラ舎の最終チェックなど大忙し。空調設備は数日前から運転し、舎内の温度管理も徹底している。新鮮なユーカリの葉5キロを採取して2匹の食事も準備万端」などと伝えている。
昭和59年10月25日、園児らのふる旗に出迎えられるクイーンズランド州の首相一行。夕刊の紙面では「鹿児島に到着した2匹のコアラはVIP並みの待遇。ものものしい輸送作戦で空港から平川動物園まで運ばれた。特別仕様の専用車は、パンダ輸送にも使われたもので、パトカー先導も天皇陛下の来鹿の際と同じ体制だったという。平川動物公園では保育園児らが熱烈な歓迎。それにこたえて2匹が公開されると歓声があがった」と報じている。
昭和59年10月25日、待ち望んでいたコアラ2匹が鹿児島空港に到着。当時の夕刊紙面では「豪州クイーンズランド州のピーターセン州首相(知事)らとともに“動物大使”コアラ2匹が無事到着。スプリンター(オス、2歳)とクルーザー(オス、3歳)が初めて日本に姿を見せた。鹿児島空港では関係者約100人が出迎え、集まった人々から一斉に『かわいい』の声も起こった」と報じている。
昭和59年10月27日、コアラのために旅客機を特別チャーター、輸送作戦だけでも600万円。当時の紙面によると「夢の動物の誘致に鹿児島市がいくら投資したか、概算してみると約2億1000万円となった。最も高額だったのは動物園のコアラ舎で1億3000万円。そのほか獣医ら4人の研修費に500万円、エサのユーカリ関係でも1700万円。VIP並みの輸送作戦には旅客機チャーターや専用車まで600万円かかった」と伝えている。
昭和59年11月、一般公開の11月20日を目前に2匹の名前が「はやと」と「ネムネム」に。当時の紙面では「一般公開をひかえて、コアラ舎は飾り付けや順路整理など準備も万全。2匹のコアラも新しい環境にすっかり慣れ、体調は良好という。『ようこそ はやと、ネムネム』の看板も入り口にかけられ、初日からかなりの混雑が予想されるため、誘導ロープの準備や迷子本部も設置された。園側は日曜には3万人を上回るものと予測し、警備などに約100人を動員する」と紹介していた。
昭和59年11月20日、一般公開初日、初対面したコアラに「かわいい」を連発する見物客。夕刊の紙面によると「日本到着から26日、やっと公開されたコアラを一目見ようと見物客が続々。朝食時間に1500人がご対面。2匹は止まり木でユーカリの葉を食べながら、かわいらしい目をぱちくり。ガラス越しに見入った入園者らは『かわいい!』『ぬいぐるみみたい』と口々に連発していた」と伝えている。
昭和59年8月、石油備蓄基地建設予定の志布志湾。当時の紙面は「鹿児島県から提出されていた国家石油備蓄基地建設にかかわる志布志湾埋め立て免許の申請を運輸大臣が認可。来月中には第三セクターも設立される見通しで、石油基地問題が計画13年でようやく建設がスタートする運びとなった。しかし、反対派住民らの抵抗も強まりそうだ」と報じている。
昭和59年9月、新大隅開発計画の中でも臨海部埋め立てで「明暗」。当時の紙面によると「有明側の海岸250ヘクタールを埋め立て、造船や機械金属が立地する予定だった2号用地。だが、環境庁の『安楽川以南の埋め立ては認めない』との姿勢もあり、2号用地には“あきらめ”ムードも強まっている。推進派の中にも『石油備蓄基地だけなら、(新大隅の)臨海部開発に賛成なんかしなかった』といった怒りも。町内にたつ『大隅開発で呼びもどそう、若人を』の立て看板がポツンとむなしくみえた」と伝えていた。
昭和59年9月27日、石油備蓄基地建設に揺れる東串良町柏原海岸が、大量の流木、枯れ草、軽石などに覆われた。当時の紙面によると「夏の集中豪雨の結果、肝付川に流れ込んだゴミが志布志湾へ流れ込み、浜に打ち上げられたらしい。延々1キロにわたっており、付近の人たちも『これほど大量のゴミは近年なかった』と驚く。早くも消えた白砂青松だが、『どうせ埋める海』と汚れたままにはしておけない」などと伝えている。
昭和59年7月25日、米国人日系二世のアリス・オツジ・ヘイガーさんがヨットによる単独太平洋無寄港横断に成功し、2カ月半かけて鹿児島に到着。当時の紙面には「アリスさんの両親は鹿児島出身で、いわば薩摩“オゴジョ二世”。挑戦1度目はハワイで断念。2度目となった今年5月8日、サンフランシスコ港を『ガンバリ号』(長さ約8メートル)で出港し、77日目に屋久島沖に到着。7月24日、夢に見た両親のふるさと、鹿児島に上陸を果たした」などと紹介している。
昭和59年10月30日、太平洋横断したアリス・オツジ・ヘイガーさんのヨット「ガンバリ号=英名Perseverance=」を鹿児島市の山形屋2号館前に展示。当時の紙面では「アリスさんのヨットは全長8メートル弱、重量も2トンの小さな船体。買い物客らは『これでよく太平洋横断を』と驚きの表情を見せ、展示した同デパートも反響に満足げだ。展示期間は11月13日まで。またアリスさんには南日本文化賞特別賞が贈られることが決まった」と報じている。
昭和60年7月23日、龍郷町大勝小に保存される高倉のカヤブキ屋根のふき替えの様子。紙面によると「高倉は150年前に建てられたもので今も学校水田の米貯蔵使用に『現役』。13年ぶりに校区民総出でふき替え作業を行った。金釘を使っていないのが特徴で、カヤを横木で押さえ、それを縄でゆわえて造った屋根を丸太の柱で支えている。湿気をふせぐ高床式で、奄美では多く残っていたが近年急速に減少している」と紹介していた。
昭和60年9月27日、鹿児島市電の上町線、伊敷線の廃止が決まり、廃止記念乗車券を発売。当時の紙面は「記念乗車券は回数券方式で4間組み。上町線、伊敷線を走る電車のカラー写真があしらわれている。3000組を製作、額面1100円を1000円で発売する」などと報じていた。
昭和60年9月、市電の中でも最も古い木造の電停が残っていた岩崎谷電停。当時の紙面には写真グラフが組まれ、「9月に入り、沿線ではカメラ片手の市民が目立ち始めた。電車が走る風景には名残がつきない。数多い電停の中で最も古い姿を残していた岩崎谷電停は、昭和23年に造られた」などと紹介している。
昭和60年10月1日、お別れ式を終えて発車する伊敷線の最終電車。紙面では「半世紀にわたり市民の足と親しまれてきた鹿児島市電の上町線、伊敷線が9月30日限りで廃止された。伊敷町電停ではお別れ式が行われ、最終電車は市民らで満員。沿道も名残を惜しむ人であふれた」と伝えていた。
昭和60年9月、昔ながらの町並みをぬうように走る市電上町線。当時の紙面では「ゆうゆうと走る市電に愛着を感じ、生活に欠かせない足として利用する市民は多い。上町線沿線は歴史のあとを残す風情のある町並み。電車が間をぬって走る風景は捨てがたい」などと伝えている。
昭和60年5月10日、日本で初めて「お嫁入り」する雌コアラ4匹が決まり、写真が初お目見え。当時の紙面では「5月14日に鹿児島に来る予定の雌コアラ4匹は『チューイ』『ジェーン』『ビンボー』『ブロッサム』。オーストラリア・クイーンズランド州のマケクニー観光相が自ら選び、花嫁候補を決めた。鹿児島市到着の日から一般公開する予定」などと報じている。
昭和60年5月14日、コアラの花嫁4匹が無事日本に到着。紙面では「平川動物公園の『はやと』『ネムネム』の花嫁となる雌コアラがカンタス航空便で成田空港経由、鹿児島空港に到着した。受け取りのため訪豪していた赤崎義則市長とマケクニー州観光相らとともに、鹿児島入りした4匹を、関係者ら100人が同空港で出迎えた。平川動物公園では引き渡し式も行われ、近くの保育園児らが熱烈歓迎。一般公開も行われた」と伝えている。
昭和60年9月17日、仕切り越しのお見合い期間が過ぎ、いよいよ10月にも結婚かと期待集めるコアラ。当時の紙面では「6月から仕切り越しのお見合い期間に入り、経過が順調だったため『8月末にも結婚か』と期待が高まっていた。最年長の『ジェーン』はこれまで2回の発情を迎えたが、平川動物公園では時期尚早と判断。10月に予想される次回発情に向け、体力回復を図るなど準備を進めている。気になる花婿は『どちらも可能性あり』で、反応をみてカップルを決める」などと紹介していた。
昭和60年10月7日、急死した雌コアラ「ユカリ(英語名・チューイ)」のお別れ式が鹿児島市の平川動物公園であった。当時の紙面によると「ストレス症候群のため10月3日に急死したユカリは1歳11カ月、日本名がついたばかりだった。同園のコアラ舎入り口に祭壇が設けられ、近くの幼稚園児や関係者など80人が参列してお別れ式が行われた。園児代表のお別れの言葉や弔辞などあり、菊の花をささげてユカリのめい福を祈った」という。
昭和60年7月26日、菱刈鉱山が金鉱石40トンを25日初出鉱、金鉱石を満載して坑道を出るダンプ。当時の紙面に「探鉱調査のボーリング以来4年目にして初めて出鉱した。神事のあと、それぞれの坑道口のクス玉が割られ、鉱石を満載した13トンダンプ6台が次々とあわらわれた。当面は1日に30トン出鉱する計画で、8月下旬には専用運搬船で加治木港から、精錬所のある愛媛県新居浜市へ運ばれる」と紹介していた。
昭和60年11月、菱刈鉱山が坑道内を公開、撮影された“世界一”の金鉱脈。当時の紙面では「金の平均含有量がトン当たり162グラム。世界一の金鉱脈といわれる菱刈鉱山が、初めて報道関係者に坑道内部が公開された。脈幅2.5メートルの特大金鉱脈は坑道口から180メートル直下。黒っぽい緑色の凝灰岩の中を、滝のような白い太い帯が走っており、この金鉱脈に巨大な削岩機が突きささっていた」などと伝えている。
昭和60年7月13日、国鉄の廃止対象路線になっている宮之城、山野、大隅、志布志の4線の鹿児島県の対策検討会議が12日に最終会議。紙面では、廃止・転換へ向けた国鉄との交渉テーブルとなる協議会に、4線沿線の自治体がそろってつくことになった。今後は、住民の足を確保していく観点から4線ごとに申し入れるなどの3項目を確認、国鉄側に申し入れた、と報じている。
旧末吉町のガス発動機
福山酢、春の仕込み
鹿大合格発表 歯学生80人が誕生
大久保甲東100年記念式典開く
大久保甲東、100年ぶり故郷で晴れ姿
イッシー無人観測所
盛大に奄美復帰25周年記念式典
奄美復帰満25年
日本復帰25年祭開く
イッシー現る
本の箱詰め作業/県立図書館移転
新県立図書館へ32万冊ピストン輸送
大久保利通像除幕式に遺族ら250人が参列
無人化する馬毛島の小学校
鹿児島市が50万人都市に
九州自動車道 栗野―えびの間が開通
九州自動車道 鹿児島―宮崎が直結
諏訪之瀬島の牛の積み替え作業
国直トンネル貫通/大和村
奄美の空にコミューター機就航
スクールボート”退役”
「パナウル王国」と命名/与論町
日本一の巨大石灯ろう/和泊町
コアラ人気で商戦フィーバー
平川動物公園でコアラ舎の建設着々
歓迎ムード一段と、コアラバスも登場
ユーカリ寄贈された幼稚園でコアラの絵描く/旧高山町
便乗商戦第2波
デパート屋上にコアラのアドバルーン
いよいよ到着、準備に追われる平川動物園
歓迎のなか平川到着。ユーカリおいしそうに
コアラ大使、鹿児島”着任”/鹿児島空港
コアラ誘致の総費用は「2億1000万円なり」
名前は「はやと」と「ネムネム」
「はじめまして」コアラ一般公開始まる
石油備蓄基地建設予定の志布志湾
「夢」を託して立てた看板/新大隅開発計画
延々1キロにゴミの山/東串良・柏原海岸
”オゴジョ二世”がヨットで単独太平洋横断
単独太平洋横断したアリスさんのヨット展示
13年ぶり高倉を化粧直し/龍郷町
市電上町・伊敷線廃止で記念乗車券発売
市電上町線の岩崎谷電停
市電上町・伊敷線が廃止 最終便に満員の市民
昔ながらの街並みをぬうように走る市電上町線
「私たちが花嫁よ」雌コアラの来鹿決まる
コアラの花嫁、4匹仲良く日本到着
「お見合い期間」すぎ、いよいよペアリングへ
雌コアラの「ユカリ」が急死、お別れ式
金鉱石40トン初出鉱、来月精錬所へ輸送
これが金鉱脈、白色の「太い帯」初公開
国鉄廃止対象4路線 県対策検討会議開催