※タイトルは本人の字を使用しています
| 今村 浩介 | 鹿児島市田上小5年 |
ぼくの母は、一生けん命働いて、ぼくたち二人の兄弟を育ててくれている。いそがしくて、なかなか授業参観には来ることができない。母の大変さはよく分かっているので、「授業参観に来て。」とはなかなか言えない。そのことを分かっているからなのか、母のかわりに祖母が来る。
祖母は、今年で七十一才。高台にあるぼくの家から、せまくて急な坂をおり、約二キロの道のりを歩いてやってくる。こしの痛みにたえ、つえをついて。そこまでして来なくてもいいと言うのであるが、それでもやって来る。だから、ぼくは、せめて自分ががんばっているすがたを見せてあげたいと思って手をあげるのだ。実は、仕方なく。
心がどんよりするのは、国語の授業参観の日。いつものように祖母がやってきた。国語は、自分の考えを自分の言葉で発表しなければならない。これが一番苦手だ。先生は、「自分の考えを発表するのに、正解やまちがいはない。」と言うけど、ぼくにしてみれば、当たり、はずれがはっきりした方が答えやすい。結局、手さえあげることができないままに、授業は終わってしまった。「ばあちゃんは、なんて言うかな。」暗い気持ちで家に帰った。祖母は、ぼくが帰って来るなり、「今日の勉強は難しかったの。」「先生の話は聞いてたの。」などとしつこく聞いてきた。めんどうくさくて、適当に答えていると、祖母の最後の一言。
「授業はしっかり分かっていたの。分かっているんだったら、自分の考えを発表すればいいのに。」
ぼくは、「そんな簡単にできれば、苦労はしないよ。もし、ぼくの考えがまちがっていたらぼくもはずかしいけど、ばあちゃんもはずかしいんだよ。人の気も知らないで。」と言いたくなるのをぐっと飲みこんで、正反対のことを言った。
「ばあちゃん、今度はがんばるから。」
こしの痛さにたえて、わざわざ学校に来てくれている祖母には、とても言いたいことを言うことができない。
ぼくにとって、忘れられない授業参観もある。親子でランプシェード作りをしたときだ。もちろん祖母と一しょ。祖母は、かさになる部分に紙をはり、器用にしわをつけながら、
「浩介、ここはもっと紙が必要よ。」
などと言い、楽しそうに作っている。ぼくも、祖母と、一しょに紙をはりつけていった。祖母が、工作が得意だったなんて意外だった。二人で一つの作品を作りながらいろいろな話をした。家で話す時よりも何だか楽しかった。ランプシェードのやわらかい光に照らされた祖母の顔は、目じりが下がり、やさしかった。
きびしくもあり、やさしくもある祖母。こしが痛いのに、つえをついてまで、どうして授業参観に来てくれるのだろう。
「浩介にしてやれることは、授業を見ることぐらいしかできないからね。それに、あんたががんばって勉強しているのを見るのが楽しみなのよ。ばあちゃんは、あんたから元気をもらっているんだよ。」
祖母の言葉が、むねにジンとひびいた。ぼくのがんばりが、祖母を元気にするなんて、思いもしない答えだった。
これまで、ぼくは、祖母にいいところを見せたいという思いだけで、無理して手をあげていた。でも、心の中では、「なんで発表なんかしないといけないんだろう。いやだな。」と思っていた。しかし、今はちがう。内気な自分の性格を、少しずつ変えていきたい。また、まちがいをおそれず、自分の考えを堂どうと言えるようにもなりたいと思う。それが祖母を喜ばせるだけでなく、自分のためにもなるのだと思うようになったからだ。それに、いやいやながら仕方なく手をあげているぼくのすがたよりも、本当に楽しく勉強している自分を見せた方が祖母もうれしいはずだから。
「あんたから元気をもらっている。」と言ってくれた祖母のためにも、がんばりたい。そして、いつか必ず、ぼくが、祖母のつえになって祖母を支えていきたい。
今日の授業参観。やる気にあふれたぼくがいる。目じりを下げ、やさしくぼくを見つめてくれている祖母をせに、「はいっ。」と思い切り手をあげた。
【評】「あまりしゃべる方ではない」「積極的に何かをするわけでもない」とけんそんしている浩介君ですが、おばあさんへの思いやりの深さが、みごとに表現されています。
働くお母さんに代わって、高台の家から、せまくて急な坂をおり、約2キロの道のりを参観日にやってくる71歳のおばあさん。「せめて自分ががんばっているすがたを見せてあげたいと思って手をあげるのだ」と書いている浩介君ですが、「実は、仕方なく」なのだそうです。ユーモアのセンスあふれる文章で、自分の心のかっとうと向き合っています。内気な性格を、少しずつ変えていこうという心意気も伝わります。今でも十分おばあさんのつえになって、支えてあげていると感じました。
働くお母さんに代わって、高台の家から、せまくて急な坂をおり、約2キロの道のりを参観日にやってくる71歳のおばあさん。「せめて自分ががんばっているすがたを見せてあげたいと思って手をあげるのだ」と書いている浩介君ですが、「実は、仕方なく」なのだそうです。ユーモアのセンスあふれる文章で、自分の心のかっとうと向き合っています。内気な性格を、少しずつ変えていこうという心意気も伝わります。今でも十分おばあさんのつえになって、支えてあげていると感じました。
(鹿児島国際大学短期大学部教授・種村エイ子)
| 中原 航 | 湧水町上場小6年 |
呼んでも帰ってこない犬をさがして、けもの道を進んでいる父がぼくを止めた。じっと目をこらすと、十メートルもない先のしげみに、黒い丸い大きなものがいる。イノシシだ。
「よしはるさん、ブタが目の前におっど。」
鉄砲も持たずに山に入った父は、後からついてきた仲間に大声で伝えた。ズドーン。ズドーン。耳の奥までびんびんひびく音。山に鉄砲の音がこだます。まい上がる土と葉っぱが混ざったようなほこり。タッタッタッタッ。にげていく、イノシシが。だが、イノシシの後を追ってくるはずの犬はまだ出てこない。
「いん(犬)は、やられちょっかもね。」
父の予想は的中。イノシシのきばで切りさかれ全身血だらけの犬がぐったりとして、ぼくたちのすぐ近くに横たわっていた。
「鉄砲をもっちょれば、犬のかたきがとれたたっどんね。ぐらしかね。」
と、父ははきすてるようにつぶやいた。幸いこの時の犬は助かったが、横っ腹に穴があくくらいの力できばをつき立てられ、死んでしまう犬だって、今までにはたくさんいた。
父たちとイノシシの死とうは、長島町や栗野だけの山中でくり広げられる。イノシシの命とりょう犬の命。そして、時には人間の命をかける危険もある戦いだ。ぼくは、けものと人の知恵比べや、けものにむかっていく犬のたくましさを描いた椋鳩十の物語が大好きだ。だから、父たちの狩りが始まると、いつも連れて行ってもらうのだ。
「リキ、行け。」
これまでの狩りの経験を生かして、父たちがイノシシの足跡を見つけると、いよいよりょう犬の出番だ。小さいころから、とってきたイノシシの足や頭を丸ごと食べさせたり、足跡をかがせたりして、自分の食べ物はイノシシだと分からせてきたりょう犬は、イノシシのにおいを追って勢いよく山に消えていく。
犬の首輪には、マイクロホンがついていて、鳴き声や海に入るジャブジャブという音などが父に聞こえてくる。父はこのマイクロホンで、犬の居場所を判断し、無線機で仲間に知らせる。父は、
「勉さんは、ちりかごに行ってくいやん。」
と狩り場についている、仲間だけに分かる暗号のような狩り場名をつげる。そこで待ち伏せをするのだ。この待ち伏せ場所を「まぶし」といい、これまでの経験がものをいう。父のうでの見せどころだ。
ぼくが勉さんと一緒にまぶしで、どのくらい待っただろう。ワォーと、オオカミのような途切れることのない長い鳴き声が、風に乗って聞こえてきた。とうとう、夜行性のイノシシを見つけ、ねどこから追い出してきたのだ。このほえる声を、ぼくたちはどんなに待っていたか。勉さんは、すぐさま、鉄砲のおしりを肩に当て、目の高さまで持ち上げた。鉄砲の先についている三角のしんをイノシシの頭に合わせる。頭は肉も少なく、一発でしとめやすいからだ。「来い。来い。」ぼくは心の中で叫んだ。ズドーン。ズドーン。ブッブヒッー。ゴロゴロゴロ。がけ下に転がっていくイノシシ。勉さんは、ほっとひと息はいて、にんまりしながら、無線で仲間に伝えていた。
「とったど。うどやったど。」
無事に狩りが成功した喜びを父はりょう犬に向ける。父は、
「リキ、わいはむぜかねえ。」
と言いながら、まるで赤ちゃんをあやすように、犬たちの首の下をなで、犬の活躍ぶりをほめる。父の犬への愛情は、えさにも表れる。
「お父さん、これは晩ご飯なの。」
「こいは、いん(犬)のとよ。」
いいにおいにつられたぼくはがっかりしたが、リキと父の強い信頼関係に支えられて、狩りができることを知った。
取ったイノシシを解体することを「こしたえる」という。父は、どんなに夜遅くなってもこしたえと血抜きをする。
「竜ちゃんのイノシシはくせがないよな。」
と言われるくらい、ますますおいしい肉になる。イノシシからいただいた命を大切にしようという父のこだわりの儀式みたいだ。
イノシシの足跡が探せないひまな時、父は鉄砲の危険について語ってくれる。体の大きな父でさえ体が後ずさりするような反動があること。体の小さなぼくなら、後ろに飛ばされるに違いないから、決して鉄砲にふれないこと。狩りに熱中しても、必ず周囲に人間がいないか確認することを忘れないことなど、命の重みについて語ってくれる。
狩りは、犬とイノシシの「生きたい」という叫びのぶつかり合いだ。家から栗野だけを見ていたら、いつの間にか、知恵と力の駆け引きを繰り広げているぼくとイノシシの姿が浮かんできた。待ってろよ。ぼくとの対決を。
【評】イノシシ撃ちの体験をもとに、「イノシシ」、「犬」、「人間」の命のかけひきをうまくとらえた作文です。「ズドーン」、「ワォー」、「ブッブヒッー」という擬音語が狩りの迫力と動きを的確に生み出しています。また、「ブタが目の前におっど」、「やられちょっかもね」、「ぐらしかね」、「ちりかごに行ってくいやん」、「うどやったど」など、狩人の仲間同士の会話が、狩りの様子を具体的にぐっと盛り上げています。栗野岳を見ながら、狩りをする自分の将来を想像している結びも夢があっていいですね。
長年、この作文コンクールの審査委員長であられた椋鳩十先生が、この作文をお読みになったら、さぞかし喜ばれただろうと思うことです。
長年、この作文コンクールの審査委員長であられた椋鳩十先生が、この作文をお読みになったら、さぞかし喜ばれただろうと思うことです。
(鹿児島国語教育研究会顧問・野田實)












