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 白い閃光(せんこう)が光る。教室から赤や黄色の炎が上がる。地面にうつぶせに倒れる学生も、互いの肩に手を回して助け合って歩く2人も、血まみれの姿だ

 長崎に原爆が落とされた75年前のきょう、爆心地近くの長崎医科大学(現長崎大医学部)にいた松下兼知さんが描いた「長崎原爆15分後」と題する地獄絵図である。現在、霧島市福山の松下美術館で公開されている

 原爆の投下で大学構内はすぐに火の海となり、900人近くの犠牲者が出た。当時、精神科の教官だった松下さんも生死の境をさまよい、20回を超える輸血を受けたという

 終戦から4年後、故郷の福山に戻り、診療所を開く。精神科医として重症心身障害児の支援施設を設置するなど、取り留めた命で地域医療に尽くし、元号が昭和から平成に変わった年、84歳で鬼籍に入った

 次男兼介さんによると、原爆について公に語ったのは、戦後40年を経てからだった。原爆の犠牲が出なければ軍部は暴走を続け、もっと多くの国民が命を落としていたのではないか-。そんな言葉を残している。「父の気持ちは複雑で重いものでした」

 原爆詩人といわれる峠三吉が画家の丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」に寄せた詩がある。「この図のまえに自分の歩みを誓わせ/この歴史のまえに未来を悔あらしめぬよう」。松下さんの絵に描かれた犠牲の上に、今があることを忘れまい。