( 7/17 付 )

 鹿児島市であったバイオリニスト高嶋ちさ子さんの公演で、利き酒ならぬ“利きバイオリン”を体験したことがある。観客は目を閉じ、高嶋さんが交互に弾く2本の音色を聞き比べた。

 片やストラディバリウス、もう片方は数万円の入門用モデルである。違いは感じたが、どちらが弦楽器の最高峰なのかは分からなかった。客全体の正解率も半分ほどだった。

 だが、300年以上前にイタリアで製作され、現在は数億円の値がつく名器は演奏家にとって特別な存在らしい。国際的バイオリニストの辻久子さんは48年前に手に入れた。代金を工面するために自宅を売り払って話題になった。

 織田作之助の小説「道なき道」は辻さんがモデルだ。6歳から音楽家の父親にバイオリンを学び、12歳でコンクールの審査員に「悪魔の子」と評されるまでの稽古の日々が描かれる。

 娘を日本一にする-。この一念に駆られた父は寸分の音の狂いも許さない。弱音を吐かずに食らいつく娘の姿は痛々しいほどだ。目指す弦の響きのためなら対価を惜しまぬ純粋な情熱は、こうして育まれたのだろう。

 辻さんが95歳で旅立った。戦前、戦後を通して第一線で活躍し、鹿児島県内でもたびたび演奏を披露した。清らかな調べを堂々と奏でる姿に勇気づけられた後進の演奏家は多い。歴史的な名器に名前負けせぬ使い手として、音楽ファンの記憶に刻まれた。