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 ハワイ・真珠湾の攻撃に参戦した元日本海軍飛行兵は、1941年の8月ごろから鹿児島湾で魚雷攻撃の訓練を繰り返したと証言している。鹿児島湾の地形が真珠湾と似ていたからだ。

 出水市の出水基地を飛び立つ。天文館上空をすれすれに飛び、湾に浮かしたブイを敵の船に見立てたという。「後で考えてみたら、それはもう真珠湾の攻撃の仕方であった」と振り返る。

 太平洋戦争の戦端を開いた真珠湾攻撃からきょうで80年である。日本軍の奇襲で多数の艦船が大破し、米側の約2400人が死亡したとされる。日本はそこから多くの犠牲を伴う泥沼の戦争に入っていった。

 当然だが、開戦の日は突然訪れたわけではない。「その日」を想定した訓練は、4カ月も前から鹿児島で行われていた。もっとさかのぼれば、満州事変から日中戦争を経て徐々に、軍部が力を持つ社会へ変わっていった。

 半藤一利、加藤陽子、保阪正康3氏の鼎談(ていだん)をまとめた「太平洋戦争への道1931-1941」は、歴史をたどりながら、無謀な戦争へと歩む日本の姿を浮き彫りにする。引き返す機会を逃したのは、リーダーが不勉強で冷静な判断ができなかったからと、半藤氏は断じる。

 <戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉>。日常に潜む変化に気付き、引き返す知恵を私たちは身に付けられただろうか。過去に学び、未来を考える大切さを思う。