[終戦記念日] 五輪の歴史に学ぶ教訓
( 8/15 付 )

 新型コロナウイルス下で開かれた東京五輪には、205カ国・地域と難民選手団を合わせ約1万1000人の選手が参加、躍動するアスリートの姿が国民の記憶に刻まれたに違いない。
 五輪は「平和の祭典」といわれる。その由来は紀元前8世紀からの古代オリンピックにさかのぼる。競技会開催前には毎回、休戦が宣言されたという。
 近代五輪の父と呼ばれるクーベルタンはこれに倣い、「平和の祭典」として五輪の意義を訴えた。五輪憲章にも「人間の尊厳を守る平和な社会の推進を目指す」とうたわれている。
 今回の東京五輪を巡っても2019年12月の国連総会で五輪休戦決議が採択された。だが、期間中にアフガニスタンやイラク、シリアなどで戦闘やテロが頻発し、犠牲者は数百人に上るとされる。理想と現実の落差はあまりに大きい。
 太平洋戦争の終戦からきょうで76年になる。時代に翻弄(ほんろう)されてきた五輪の歴史を振り返りながら、平和や命の尊さをかみしめる一日にしたい。

■平和の祭典の陰で
 「国家ノ総力ヲ挙ゲテ事変ノ目的達成ニ邁進スルヲ要スル状勢ナルニ鑑ミ オリンピック大会ハ之ガ開催ヲ取止ムルヲ適当ナリト認ムル」
 1940(昭和15)年の東京大会開催の返上を知らせる通知文の一部である。38年7月15日、当時五輪を所管した厚生省(現厚生労働省)が出した。
 36年の国際オリンピック委員会(IOC)総会で、40年の東京開催が決まっていた。しかし、決定の翌37年7月に盧溝橋事件が起き、日本と中国は全面戦争に発展していく。
 そのため、メインスタジアム建設に必要な鉄骨を確保できなくなった。日本の軍事侵攻に反発が強まり、ボイコットする国が相次ぐ可能性が高まったことも開催断念の一因とされる。
 政府は、五輪よりも「事変ノ目的達成ニ邁進」することを優先した。日本政府がこのとき、国際社会と協調する姿勢に転じ日中戦争を収束に向かわせていたら、その後太平洋戦争に突入していった歴史は、どう変わっていただろうか。
 だが、33年に国際連盟を脱退し孤立を深めていた日本に、その選択肢はなかったのかもしれない。ノンフィクション作家の保阪正康さんは、この「幻の東京五輪」を「政治、外交、軍事を含め帝国主義国家の敗北」と位置付けている。
 39年に第2次世界大戦が勃発し、五輪は2大会続けて中止に追い込まれた。大戦終結後、48年のロンドン大会で復活するが、72年のミュンヘン大会ではパレスチナ過激派が選手村を襲撃し、イスラエル選手団11人を含む計17人が死亡する惨事が起きた。
 「平和の祭典」の理念はいまだに実現していない。今回の五輪に参加した難民選手団は、戦乱が続くアフガニスタンや内戦下のシリアなど11カ国出身の29人で結成された。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、難民や国内避難民らは世界で8000万人を超える。
 オリンピックという言葉を聞いたこともなければ、東京がどこにあるのかも知らない人が世界には数多くいる。華やかな五輪の陰で、銃弾におびえ、迫害され、母国を逃れた人たちのことを忘れてはならない。

■政治利用の始まり
 五輪開会式のハイライトである聖火リレーは、「ヒトラーの五輪」と呼ばれる36年のベルリン大会で始まった。
 「聖火はオーストリアなど各国でカギ十字旗やナチス的敬礼の歓迎を受け」「壮大なナチス・プロパガンダ(宣伝)の性格を帯びることになる」(結城和香子著「オリンピック物語」)
 五輪が政治に利用された最初の出来事という。その後も政治とは切り離せない歴史がある。
 76年のモントリオール大会は多くのアフリカ諸国が南アフリカの人種隔離政策に抗議してボイコットした。
 また、東西冷戦下の80年モスクワ大会で日本は初めて五輪をボイコットした。同年1月、カーター米大統領はソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し不参加を表明、日本も追随した。
 次の84年ロサンゼルス大会にはソ連など東側諸国が参加しなかった。ボイコット合戦で代表候補に選ばれていた世界の多く選手が涙をのんだ。政治の思惑で犠牲を強いられるのは五輪のあるべき姿とは言えまい。
 五輪の歴史から見えてくるのは、時の指導者の意向や思惑、思想がアスリートの夢を奪うだけでなく、国家間の対立を生み、平和や命を脅かしかねないということではないか。
 東京に緊急事態宣言が出される中、開催を強行した今回の五輪は、商業主義や政治主導が鮮明になった。国民の命を最優先し、「平和の祭典」にふさわしい大会だったのか。今も疑問は消えない。