17.いぶたま

 今回は観光特急「指宿のたまて箱(愛称・いぶたま)」です。鹿児島中央(鹿児島市)と指宿(指宿市)を3往復し観光客を“湯のまち”へいざないます。


遊び心あふれる白黒の車体


 「いぶたま」は九州新幹線鹿児島ルートが全線開業した2011年3月に運行を始めた。名前は、薩摩半島に伝わる竜宮伝説に由来する。海側が白、山側が黒の車体は、浦島太郎が玉手箱を開けて白髪のおじいさんに変わった様子を表している。
 浦島太郎の玉手箱にちなみ、ドアが開くと屋根付近から煙のような霧が噴き出す。車内に玉手箱があり、中にメッセージを書いて入れると、車内放送で紹介してくれる。至る所に遊び心がちりばめられた列車は人気が高く、乗客が多い時は1両増やして3両編成となる。運行開始から18年度までの平均乗車率は約8割。昨年4月29日には乗客が100万人に達した。
 指宿市では住民らが沿線で手を振ったり、お茶を振る舞ったりとおもてなしに力を入れている。昨年7月には「いぶたま」が近くを通る指宿商業高校が、学校総出で観光客歓迎イベントを実施。全生徒と職員ら約600人が列車に向かって旗や手を振り、車内では生徒が冷たいお茶を振る舞って乗客をもてなした。
 そんな「いぶたま」も、5月末まで新型コロナウイルスの影響で運休中だ。一日も早く感染が終息して、南国の日差しを浴びて快走する白黒の車体を見たいものだ。


 観光特急「指宿のたまて箱」を描いてみました。九州新幹線鹿児島ルート開業に合わせて登場した特急列車で、指宿枕崎線に特急が走るのは開通以来初めてのことでした。ドアが開くと、浦島太郎の玉手箱のように、ミストが噴き出る仕掛けがあるなど、各所に工夫が凝らされた車両になっています。
 新型コロナウイルスの影響で今後の運転の見通しが不透明です。終息後には、再び満員のお客を乗せて走る姿を見たいものです。

16.JR鹿児島線

 今回はJR鹿児島線です。鹿児島県内区間が川内(薩摩川内市)―鹿児島(鹿児島市)間の49.3キロとなった今も、地域の重要な足として利用されています。


鹿児島市へ通勤・通学客運ぶ


 鹿児島県内の鹿児島線は1913(大正2)年、川内線として鹿児島(鹿児島市)―東市来(日置市)間が開業したのが始まりだ。その後も鉄路は東シナ海沿いを北上。27(昭和2)年に八代(熊本県八代市)―鹿児島間が全線開通すると川内線は鹿児島線となり、八代―人吉(熊本県人吉市)―隼人(霧島市)間は肥薩線と名前を変えた。
 かつては特急が博多(福岡市)と鹿児島を行き来したが、2004(平成16)年に九州新幹線の一部開業で八代―川内間が第3セクター・肥薩おれんじ鉄道に引き継がれると、沿線の通勤・通学客らを鹿児島市へ運ぶ路線へと姿を変えた。09年に広木駅(鹿児島市)、10年には神村学園前駅(いちき串木野市)が開業。中でも広木駅は住民らによる30年越しの設置運動が実を結んだ。式典では棒踊りや虚無僧踊りなど駅周辺に伝わる伝統芸能を披露し、開業を祝った。
 広木駅の隣の上伊集院駅(鹿児島市)はかつて饅頭石駅と呼ばれた。駅から東へ約20分歩いた林の中にある、周囲12メートル、高さ約1.5メートルのまんじゅう形の石が駅名の由来で、島津家15代当主・貴久が腰を下ろし、休息したと伝わる。新型コロナウイルスの感染が終息したら、みんなも沿線の見どころを訪ねてはいかが。


 JR鹿児島線から、広木駅と普通列車を描いてみました。広木駅は2009(平成21)年に開業した新しい駅ですが、複線化される1969(昭和44)年まではほぼ同じ場所に広木信号場があり、上下列車の行き違いを行っていました。現在は広木駅のすぐ隣にトンネルがありますが、信号場があった当時は南へ山を迂回するルートでした。広木駅前から田上台への道路脇に、当時のトンネルが今も残っています。

15.旧山野線

 今回は旧山野線です。水俣(熊本県水俣市)―栗野(湧水町)間55.7キロを結び、北薩地域の発展を支えました。


山を一回り“金の道”支え67年


 旧山野線は1921(大正10)年、栗野―山野(伊佐市)間が開通したのが始まり。当時、沿線には金山がいくつかあり、栗野駅から鹿児島線(現在の肥薩線)を使って金を運び出したり、金山で働く人が出掛けたりするのに鉄道が必要で、地元の声に応じて建設された。
 27(昭和2)年、海岸沿いに現在の鹿児島線が開通すると、水俣から山野に向けた鉄道建設が始まった。34(同9)年に水俣―久木野(水俣市)間が開業。薩摩布計(伊佐市)―久木野間の山岳区間には、山を一回りすることで勾配を和らげる「大川ループ線」が建設され、37(昭和12)年に全線が開通した。ループ線の距離は1000メートルで、直径は320メートル。ぐるりと回ることで、列車は30メートル上ることができたのだ。
 戦後は品質のいい金鉱石が掘り尽くされ、沿線の金山は相次ぎ閉山。旧国鉄がJRに変わって10カ月後の88(昭和63)年1月、沿線住民に惜しまれ67年の歴史に幕を閉じた。
 線路跡は道路やサイクリングロードなどとなり、枕木の一部は栗野岳レクリエーション村(湧水町)にある561段の「日本一の枕木階段」に生まれ変わった。もうすぐ湯之尾(伊佐市)や稲葉崎(湧水町)駅跡周辺の桜並木が見頃を迎える。春の陽気に誘われて、山野線の面影を探しに出掛けてはいかがかな。


 旧山野線のハイライト、大川ループ線を描いてみました。山野線には最後まで乗れずじまい。水俣駅を発車する鹿児島線の普通列車から、わずかに山野線の気動車を見た記憶しかありません。
 廃止後、徐々に撤去されていく線路に、乗ってみたかったという思いが募った結果、路線名は変更しつつもほぼそのまま、自作の漫画の舞台として登場させてしまったほどです。

14.JR枕崎駅

 今回は枕崎駅(枕崎市)です。JR最南端の路線、指宿枕崎線の始発・終着駅として旅人をいざないます。


終着駅彩るレトロな六角屋根


 枕崎駅ができたのは1931(昭和6)年。南薩鉄道=当時、64(同39)年から鹿児島交通線=の加世田(南さつま市)―枕崎間が開通し、港町・枕崎の玄関口として開業した。
 初代駅舎は45(同20)年9月の枕崎台風で失われ、49(同24)年2月に再建された。63(同38)年10月には国鉄(今のJR)指宿枕崎線が南薩鉄道の駅に乗り入れる形で開通。翌年に南薩鉄道から変わった鹿児島交通線は84(同59)年3月に廃止されたが、駅舎はバスの営業所として残された。
 しかし、2代目駅舎も周辺の再開発や老朽化のため2006(平成18)年に解体。駅は100メートル指宿寄りに移転し、ホームだけとなった。「本土最南端の始発・終着駅にふさわしい駅舎を」と12(同24)年に市や商工水産関係者、市民団体などが「駅舎建設期成会」を設立。2000万円を超す寄付金が集まり、翌13(同25)年に3代目駅舎が完成した。
 3代目駅舎はステンドグラスが施された六角屋根が特徴。照明には裸電球を使い、レトロ感が漂う。小粒ながら魅力的な駅舎はその年、日本デザイン振興会主催のグッドデザイン賞を受けたのだ。
 駅前のにぎわいを取り戻そうと、市民らがさまざまなイベントを開く。列車に揺られて、素朴で情緒ある駅舎を訪ねてはいかがかな。


 JR指宿枕崎線の終点、枕崎駅を描いてみました。かつての駅は100メートルほど西にあり、敷地を大型スーパーに譲って現在の場所に移転したのは2006年のことです。
 私が初めて枕崎駅を訪ねたのは、駅が移転したばかりのころで、駅舎はまだ無く、道路につながる通路も細く、肩身が狭そうだなと感じたものです。駅舎が完成してからは、かつての威厳をだいぶ取り戻せたように思います。

13.九州新幹線

 今回は九州新幹線です。鹿児島中央(鹿児島市)―博多(福岡市)間288.9キロを最短1時間16分で結びます。


列島縦断 南へいざなう超特急


 九州新幹線は2004(平成16)年3月に鹿児島中央―新八代(熊本県八代市)が一部開業。11(平成23)年3月に博多まで全線開業した。山陽新幹線区間にも乗り入れが始まり、鹿児島中央―新大阪(大阪市)の直通運転が始まった。前年の10年12月には東北新幹線が東京(東京都)―新青森(青森市)で全線開業しており、鹿児島から青森まで、日本列島が新幹線でつながった。
 九州新幹線は1973(昭和48)年に整備計画が決まったものの、国鉄(当時)の経営悪化などのために計画は凍結。91(平成3)年にようやく着工にこぎ着けた。
 全線開業を控えた2011年2月、JR九州はCM撮影用として、鹿児島中央駅から博多駅まで7色にラッピングした特別車両を走らせた。1万人以上が沿線に詰めかけ、通過する車両に向って手を振ったり、趣向を凝らした衣装やダンスを披露したりして盛り上げた。ところが全線開業の前日に東日本大震災が発生。CMは九州内のテレビで数回流れただけだったが、ネットなどで公開され、大きな反響を呼んだのだ。
 今年は10月に鹿児島国体が開かれ、多くの選手や関係者が薄い水色の新幹線に乗ってやって来る。「レインボー新幹線」の時のように、みんなで大いにもてなそうではないか。


 九州新幹線から、白い車体の800系を登場当初の姿で描いてみました。私にとってJR西日本の500系と1、2位を争う大好きな新幹線車両です。
 全線開業初日、東京へ行く用事があった私は、いいタイミングだと喜んで、新幹線で東京まで行こうと切符を取りました。ところが、前日の午後に東日本大震災が発生。東京での用事も中止となり、お祝い気分も吹き飛んでしまいました。鹿児島中央駅で泣きそうな気持になりながら、切符を払い戻してもらったことを今でもよく覚えています。

12.旧大隅線

 今回は旧国鉄大隅線です。志布志(志布志市)―国分(霧島市)間の98.3キロを結び、大隅半島の人や物を運びました。


大隅半島の人や物運ぶ


 旧国鉄大隅線は1915(大正4)年、線路の幅が762ミリと狭い「軽便鉄道」として高須(鹿屋市)―鹿屋(同市)間に開業したのが始まりだ。その後線路を延ばし、36(昭和11)年には古江(同市)―志布志間がつながった。途中の串良駅(同市)から西と東で線路の幅が違ったため、国鉄と同じ線路幅1067ミリに取り換えて古江線となった38(昭和13)年まで、串良駅で列車を乗り換えなければならなかったそうだ。
 また、東串良(東串良町)―串良間はわずか600メートルで、当時国鉄で最も短いといわれた。隣駅が見えるほどで、乗り遅れた高校生が列車を走って追いかけたそうな。
 戦後も線路を延ばし、61(昭和36)年には古江―海潟(のちの海潟温泉、垂水市)間が完成。72(昭和47)年には海潟温泉―国分間が開通し、大隅線と名前を変えた。当時はすでに自動車が普及して乗客は少なく、全線開通から15年目の87(昭和62)年3月、沿線住民に惜しまれつつ廃止となった。
 通学客でにぎわった旧鹿屋駅をはじめ、かつての駅跡が鉄道記念公園として沿線のあちこちに残る。線路跡は道路や自転車歩行者専用道路などになっており、当時の面影をたどることができる。自転車に乗って、大隅線の運転士気分を味わってはいかがかな。


 鹿児島湾沿いに大隅線を走る気動車を描いてみました。大隅線は私鉄として開業し、鹿屋から古江までは鉄道、古江から鹿児島市へは船で鹿児島湾を渡る構想で建設が始まりました。国鉄の路線となってからも長く終点は古江のままで、路線名も古江線と呼ばれていました。
 1972年にようやく国分まで全線開通しました。国分から垂水までは次の列車まで間隔が6時間も開くなど、特に列車本数が少なかったようです。せっかく開通させたのにもっと頑張ってほしかった、と今も残念に思っています。

11.JR吉都線

 今回はJR吉都線(きっとせん)です。都城駅(都城市)と吉松駅(湧水町)を結ぶ61.6キロの路線は、車窓から雄大な霧島連山とのどかな田園風景が望めます。


トンネルなく、車窓に霧島連山


 JR吉都線は1912(大正元)年10月、吉松―小林(小林市)間が開業。翌年10月に都城までの全線が開通した。2013(平成25)年には全線開業100周年を祝う記念式典が沿線各地で開かれた。えびの駅(えびの市)には開業当時の木造駅舎が今も残り、14(同26)年には国の登録有形文化財に指定された。
 かつては福岡や熊本と宮崎を結ぶ特急や急行が走り、沿線はにぎわった。しかし高速自動車道が整備されると高速バスに利用客が流れ、00(同12)年3月には熊本(熊本市)と都城を結ぶ「急行えびの」が廃止。18年度の輸送密度(1キロあたりの1日平均乗客数)は465人と、JRが発足した1987(昭和62)年度(1518人)の3分の1以下に落ち込んだ。
 利用者を増やそうと関係者は躍起だ。2018年12月から翌年4月まで「キット、願いかなう」ラッピング列車を走らせた。チョコレート菓子「キットカット」を販売する会社や、湧水町など沿線の3市2町でつくる利用促進協議会と協力。沿線の小林高校(小林市)美術部員がデザインした。縁起のいい招き猫やだるまを描いたほか、車内には一つだけ、ハート形のつり革が下がっていたそうだ。
 吉松駅から都城駅まで、トンネルが一つもない。車窓から霧島連山を眺めながら、列車の旅を楽しんではいかがかな。


 高千穂峰を背景に、吉都線の列車を描きました。かつては日豊線の一部で、急行列車が走り、一時期は特急も設定されるなど、肥薩線と合わせて福岡・熊本と宮崎を結ぶ役割を果たしました。
 しかし、並行する高速道路の開通によって乗客を奪われ、現在は急行列車もなく、普通列車も減らされるなど、非常に厳しい環境に置かれながらも沿線の学校への通学を支えています。線路保守のため昼間の列車は運休する日があります。乗る際はご注意ください!